伊勢神宮と吉川竜実さん
久しぶりに伊勢神宮へ。やはり1月と言うこともあり、すごい人手だったが、大勢の人間の気を遥かに凌駕する空間の気が清々しく、伊勢の中を歩いただけでも、清浄な気に包まれるような感覚になったことにも驚いた。
式年遷宮では、建物だけではなく、土自体も交換して、本当に空間丸ごとを更新すると、吉川さんにも伺った。
人間をまるごと包み込む空間は、間違いなく人体にも影響を与え、心にも魂にも不可視の影響を与え続ける。
伊勢神宮に行くたびに学ぶことばかりだ。




まさに、人を正常(=清浄)な姿に戻してくれるのが神社。神と人とは双方向で、カミサマに感謝と祝福を捧げることで、人は「ひらめき」や「直感」を受け取る。それに従って行動することで夢や願いが叶う。これが神道での神と人との関係性。ということを実感させてくれる。


紀伊半島で玉置神社や熊野、湯の峰温泉や川湯温泉に立ち寄りながら、最後に伊勢神宮に立ち寄れた。
そこで、以前から親しくさせていただいている伊勢神宮の吉川竜実さんとも久しぶりに再会してお話しできて、本当にうれしい時間だった。
吉川さんはいつお逢いしても本当に気持ちのいい方で、いい気に満ちている方。
吉川さんの「いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる」は、本当に素晴らしい本です。



再読。
神道の本質、伊勢神宮の本質を、誰にでも分かるコトバで、簡潔に説明されている著作。読んでいるだけで、何か邪気が祓われて行くような気がする!!
「神道」という日本人の無意識深く流れる信仰(宗教というよりも)では、とにかく「清浄」であることが尊ばれます。
罪や穢れを祓い、「清浄」であり続け、自然を尊ぶ。感染症(伝染病・疫病)対策には最も適した信仰ではないでしょうか。
神社でも必ず手を洗います。こういう無意識化した儀式・儀礼こそが、細菌やウイルスなど野生生物との程よい共生を行ってきた象徴なのではないか、と。
もちろん、それは湯治や温泉の文化とも深く結びついている、とも。
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本書で改めて学んだこと。
神道では、人はそのままでパーファクト、完璧な存在であるととらえる。
人を正常(=清浄)な姿に戻してくれるのが神社であり、「お清め」や「お祓い」がその手段。
神と人とは双方向で、カミサマに感謝と祝福を捧げることで、人は「ひらめき」や「直感」を受け取る。それに従って行動することで夢や願いが叶う。これが神道での神と人との関係性。
神道では、「今、この瞬間こそが、理想の世界だ」(「神代在今(かみよいまにあり)」)と考える。
神社では、お賽銭という形を通して、エネルギーの交換をしている。お金というエネルギーを公的な目的のために出すことで、「お祓い」の役目を果たす。
伊勢神宮では年間1600の神事が行なわれている。
自分たちが汗水たらして得たものでなければ、神祭りをしてはいけない、とされる。
なぜなら、農林水産業の技は、神々から授かられたものであり、感謝を込めて神にささげてきたから。
神道での繁栄は、文明の利器や近代的な生活スタイルを上手に取り入れたシンプルで豊かな暮らし。自然や他者と調和した人間らしいゆとりのある暮らし。
暮らしのすべてを自然の力(神)が支えてくれていると考えていた。
日本人は無宗教ではなく、あらゆる信仰を受け入れる。「重層信仰」であり、日本の「kami」と西洋の「God」では考え方が違う。
古来、神は山(天を含む)にいて、季節に応じて里に降りてきて人の営みに力を与えてくれる、という信仰があった。だからこそ、集落に「山宮」と「里宮」があった。
春が来て農耕がはじまることに、山宮に神輿を担いで登り、神様を迎えに行く。
村の里宮まで降りていただき、農耕に精を出し、稲や作物が実るまで近くで見守り、力を貸していただく。
・神さまを里に迎える際に行うのが春祭り、祈念祭。
・秋が訪れると、神様への感謝の気持ちを込めて秋祭りを行い、収穫を祝う。新嘗祭。
再度神さまをお神輿に載せて山宮へ送り、次の春が来るまで、山で静かに霊力を高めていただく。
八百万の神は調和と秩序のネットワークであり、上下関係ではなく、役割の違い。
だからこそ、善い神さまもいれば、悪い神さまもいる。
イザナギノミコトが水中で罪穢れを禊ぎ祓うと、体から悪神である禍津日神(まがつひのかみ)(八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二柱)が生まれる。それと同時に、悪神を正す直毘神(なおびのかみ)が生まれる
神道では、善と悪、二つの対立するもの同士があいまって、絶妙なバランスをとりながら切磋琢磨し世界が発展する。
善とはプラスのエネルギーで、悪はマイナスのエネルギー。(これはまさに、生と死の力で命のエネルギーが生まれていることと同じ)
神道の基本は、罪や穢れを祓い清めることにある。
「禊ぎ・祓い」は、心身の異常な状態を本来の正常な状態に戻す儀礼。
あるべき姿ではなくなった「異常な状態」を罪や穢れと呼び、「お祓い」や「お清め」を通して元の姿に戻す。
「罪穢れ」とは、自分が犯した罪や欠陥ではなく、日常で溜まった疲れやネガティブな感情、不要なエネルギーのこと。「悔い改める」のではなく、「祓い清める」と表現する。
正常な「ゼロ」の状態に戻ることで、「直感」や「ひらめき」が降りてくる。
「気づき」とは、ゼロ(虚・空)のエアポケットのような祓われた空間に訪れる。
直感やひらめきは、「一瞬にして物事の本質を見極めたり、正解を導き出したりできる能力」
神道とは日本の神々の存在を知覚することによる感謝と直感の信仰。
神社は常に村の中心で、共有地としてコミュニティーの要となった。鎮守の森は守護の象徴で、精神的なよりどころ。
神道には、先に笑って祝うことで望む現実を引き寄せる「予祝(よしゅく)」という考え方がある。笑顔で喜ぶ行為を先取りする。
そして、神道の基本は、
「自分自身の現実を、絶対的に肯定する」
こと。
過去も未来も「今この瞬間」にすべて畳み込まれている。未来は確定しておらず、今のあり方でどのようにも変わっていく。
マイナスだと思えることが起きても、それをプラスに転じる何かが「今」という瞬間に含まれていると気づく。
極限状況を切り抜けるためには、すべてを祓って、できる限り「ゼロ」に戻す、と神道では伝える。
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神道の考え方を見ていると、自分はすべてが医療行為のように思える。
あるべき姿ではなくなった「異常な状態」から元の姿に戻す。
そして、「自分自身の現実を、絶対的に肯定する」。
みなさんも、伊勢神宮に参りましょう。
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