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京都の異世界へ。何必館、写真と魯山人、そして自然の美学。

2 日前
読了時間: 3分

京都・祇園の花見小路近くにある「何必館(かひつかん)・京都現代美術館」を訪れた。


「何必」とは、「何ぞ必ずしも」という意味。既成の価値観や常識にとらわれず、自由な精神で美を見つめる。そんな思想が、美術館の名前そのものに込められている。






現在の展示は写真家マルティーヌ・フランクの展覧会「時代への視線」。


フランクは、写真界の巨匠アンリ・カルティエ=ブレッソンの妻でもある。しかし、彼女自身もまた、独自の眼差しを持つ優れた写真家だった。

印象的だったのは、芸術家たちの自然な表情。

偉大な芸術家を「偉人」として撮影するのではなく、同じ時代を生き、創造する仲間として撮影している。

夫を通じて広がったであろう芸術家たちとの交流も興味深いが、それ以上に、彼女自身が一人の芸術家として対等な関係を築いていたことが、写真から伝わってくる。

カメラの前で人が心を開くのは、撮影技術だけの問題ではない。撮影する者とされる者のあいだに、信頼と共感が存在するからだ。

写真とは、光を記録する技術であると同時に、人と人との関係性を写し取る芸術なのだと思う。


フランクは女性写真家の活動や地位向上にも力を注いだ。誰が世界を見るのか。誰の眼差しが歴史に残されるのか。写真には、社会のあり方を問い直す力もある。






そして、何必館のもう一つの魅力は、北大路魯山人の芸術世界に出会えること。

写真と陶芸、書、料理。一見異なる芸術が、京都という土地で自然につながっていく。


魯山人にとって、美とは美術館に飾られる作品だけではなかった。器を使い、料理を味わい、日々を暮らすこと。その生活そのものが芸術だった。


魯山人は「器は料理の着物」という言葉を残した。美とは、対象そのものだけで成立するのではない。料理と器、人と空間、自然と暮らし。異なるものが出会う「あわい」に、美が生まれる。


何必館の館長・梶川芳友さんも、そうした魯山人の美意識を深く受け継いできた方だ。

著書『魯山人への手紙』には、「魯山人自身、自らの眼を鍛えるために、費用を惜しまず優れた美術品を常に身辺に置き、使いこなすことで、先人の工夫を必死に学んでいた」という趣旨の言葉がある。

美は、眺めるだけではなく、生活の中で使い、身体で学ぶもの。

梶川さん自身も、魯山人を単に崇拝するのではなく、その芸術精神と対等に向き合い、自らの審美眼を磨き続けてきたのだと思う。





何必館の建築も素晴らしい。

上下階を行き来しながら作品と出会う空間は、どこか迷宮のよう。階段を上り下りするたびに、意識の深い層へと潜っていく感覚がある。東京のワタリウム美術館でも、私は似た感覚を覚える。美術館とは、作品を並べる箱ではなく、訪れる人の知覚や無意識を変容させる装置でもある。


そして、私が何必館で最も好きな場所の一つが、屋上の庭。

天井は空へと開かれ、雨が降り、苔が育ち、木々が季節を刻む。

建築の内部にいながら、そこは人間だけの世界ではない。



空も、雨も、苔も、風も、作品の一部になっている。

自然を征服したり、完全に管理したりするのではなく、自然とともに美を育てていく。

ここに、日本の芸術や美意識の大切な特徴があるように思う。


芸術とは、人間が自然から切り離されてつくるものではなく、自然とともに生きる営みそのものなのだ。

京都の街なかに、ひっそりと存在する異世界。

写真から人間を知り、魯山人から生活の美を学び、屋上の庭で人間を超えた自然の時間に触れる。

京都にお立ち寄りの際は、ぜひ訪れてほしい場所です。

私は、屋上の紅葉の木に、いつも静かに癒されています。





何必館(かひつかん)・京都現代美術館

〒605-0073 京都府京都市東山区祇園町北側271



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