大学入試に採用 感謝。

びわこ成蹊スポーツ大学の今年の入試に、稲葉俊郎『ころころするからだ』(春秋社、2018)から出典頂きました! ありがとうございます!

新潟薬科大学の小論文鷗友学園女子中学校の国語の入学試験やZ会の模試などに続き。


びわこ成蹊スポーツ大学

〒520-0503 滋賀県大津市北比良1204













2022年度以降に受験生と高校の進路指導の先生方に,過去問として無料で提供される、とのことなので、問題含めてご紹介します。

自分も解いてみましたが!、意外に難しいなぁ、と。汗 原本を嫌いにならないでくださいね!


でも。 久しぶりに読んでみて、なかなかいいこと書いてるなぁ、と、我ながら思いました(何を書いたか、ほぼおぼろげな記憶しかなく・・・)。


自分の本を読んでも受験対策にはならないかもしれませんが、医学や薬学、体や心の考えを深める基礎になる自負はありますので、ぜひ医歯薬関係の方、体やボディーワーク関係の職種に進む若い方にぜひ読んでいただければ!











稲葉俊郎『ころころするからだ』(春秋社、2018) 出題範囲内より出典




日本に残る「道(みち、どう)」の世界では、些細な日常の中に真理や本質を見出し、そうした一見些細でありふれたことを入り口にして、自然の原理や本質と分かちがたくつながったものとして人生をかけて探求していく世界でもある。結局は、過去の自分が未来の自分へと、よりよく成長し成熟していくための「道」でもある。人によっては、「成長」という前向きで発展的な言葉を嫌う人もいるが、そうした好き嫌いの考え方もすべて含みこんだうえで、自分がよりよく生きていくための「道」でもあるのだ。


 「道」には色々なジャンルがあり、それぞれの領域で求めるものや方法論や形式の違いはある。ただ、それは優劣で測れるものではなく、好みや特性の違いと言ってもいいかもしれない。言葉や文字が好きな人、イメージや映像が好きな人、考えることが好きな人、体を動かすことが好きな人……。それぞれの個性や特性に応じ、自分自身を成長させる「道」は多様だ。だからこそ、あらゆる「道」の世界が存在し、残っているのだろう。



体からのアプローチ「型」

 「道」の中には、身体を動かす方法論としての「型(かた)」がある。「型」とは、ある一定の形式に作られた身体運用の方法論のことでもある。わたしたちは誰もが赤ん坊としてこの世に生まれてくるが、体の動かし方を学んだ上で、体を動かしてきたわけではない。見様見真似で、あらゆる動きのトライ&エラーの繰り返しをしながら、首が座り、寝返りをし、ハイハイをして、ひとり座りをし、ひとり立ちをして、歩き、走るようになったのだ。このプロセスは、なんとか懸命に生きようともがく中で自力で必死で自己学習してきたものだ。だから、体の使い方はどうしても自己流になってしまうのも当然といえるだろう。


 ただ、身体の運用方法で共有されたものもある。それが「型」と呼ばれるものだ。「型」は、今でもあらゆる「道」の世界に残っている。たとえ理由が分からずとも、型に沿った身体の運用方法には、型に落とし込んだ人たちの深い意図がある。型を学ぶことで、心はある状態に落ち着き、体と心とが分かちがたく一つであること(心身一如)を、体の体験としても学ぶことができるのだ。心が不安なときは、まさに心が「不安定」になっているときでもある。ただ、心は目に見えず形がない。水も同じように定まった形はないが、器が存在すると水はある一定の形態を持つ。心にも一定の形を与えて安定させるために、まず心の器である身体を安定させることから始めることが、型の考えの基礎にある。体の全体を安定させるために呼吸を安定させることから始めることもあるだろう。そのことで「おのずから」心は安定していき、明晰な本来の心で外界を見て聞いて感じて生きていくことができる。まるで楽器のチューニングのように。チューニングが適切でないと、本来の音色は響かないのだ。そうした身体技術が「道」の中には、「型」として残されている。


 「道」の世界では、個々人の調和や安定を図るための、様々な体や心の運用技術が伝えられてきた。そういう意味では、きわめて医療的な側面を持っていると思うのだ。



心からのアプローチ「言葉」

 体からのアプローチとしては、「型」という身体の形式があり、そのことで心をある一定の「型」に収めていく。心からのアプローチに関しては、様々な「美」や「芸術」を作っていくプロセスによって、心の葛藤をおさめて昇華させ、一つ上の視点から見る視点を獲得していく。


 わたしたちはうれしく楽しく美しいプラスの(ポジティブな)体験もするが、悲しく辛く受け入れがたいマイナスの(ネガティブな)体験もする。特に死や別れは受け入れがたいものであるし、時には裏切られたり信頼を失ったりする体験などもある。人生では様々な体験が向こうからやってくるのだ。多くは避けることができないものとしてやってくる。そのとき、自分の心にはおさまりきれないし、受け入れることができないことも多いだろう。そうしたとき、わたしたちの心はどのようにして対応して、前に進んでいるのだろうか。


 わたしたちの不定形な心は、何かしらの言葉をピースとして形を持っている。そもそも、感情自体に「つらい」「かなしい」「せつない」などと言葉を当てているのは、形がなく見えないものに何らかの「言葉」を当てないと、無意識の深みから意識の上へと浮上させて認識するのが難しいからだ。言葉をあてることで(たとえそれが不十分なものであっても)、そのモヤモヤした不定形なものを意識することができるようになる。言葉を素材として無意識に潜む不定形な心の動きや感情の動きに形をあてることで、意識と無意識とに橋をかけている。心が不安定で揺れているときにも、何かしらの「言葉」を頼りにすることは、心を一時的に安定化させるために重要な行為だ。そもそも、「こころ(心)」という言葉自体が「コロコロ」と移り変わるさまを表す擬態語から生まれたという話があるくらい、心は不安定で動揺しやすいのだ。


 たとえば、和歌を詠むことを考えてみよう。つらい体験、受け入れがたい体験、死や離別などの体験をしたとき、その状態に適切な言葉をあてて表現することで、自分の中の不安定な心はある一定の形を持ち、新たに動き出していくための心のとっかかりを持つことができる。自分の中で葛(くず)や藤(ふじ)の枝のようにもつれあって絡まりあった様々な不可知なものたちが(こうした植物の生態が「葛藤(かっとう)」の語源でもある)、言葉によってほぐされることで、心が動き出す余裕(スペース)が生まれるのだ。心は手ごねの粘土のように常に形を変えて作り替えられていくものだから、生きていきながら、新しい経験を重ねながら、さらに新しい言葉を発見しながら、心の形は未来においても作りかえられていくことを繰り返し続ける。そうして受け入れがたい体験を心の中に収めていくために、言葉は非常に重要な役割を果たすのだ。広い意味では、イメ―ジも、イメージ言語という意味での言葉にもなる。そうした相矛盾するものを心の器の中に受け入れながら、新しい心の状態を発見していく営みが、言葉として顕現してくると和歌になり、俳句になり、言葉が生み出す芸術へと高められていく。「道」の世界にも、そうした営みが分かちがたくセットになっていることが多いのは、心を安定化させる技として、先人たちがあらゆる模索を繰り返した結果として残っているからではないだろうか。もちろん、言葉はそうして心に形を与えることができるため、言葉によって意味が固定化されてしまうと、逆に心の流動性や自由さや柔軟さが奪われ、今度は言葉が自分自身を縛り始めることもある。道具はすべて使いようだ。そうした言葉のいい点と悪い点とを理解しながら、言葉と自分の思考との関係性を十分に把握しながら、自分の心をより自由にするために、言葉の世界とうまく共存・共生していく必要があるのだ。



心身一如

 体の運用技術としての「型」においても同様のことが言える。例えば、座禅ではただ座る、ということを重視する。しかし、このただ座る、ということこそが難しいのだ。頭は色々なことを自動的に考える。それは雑念であり、そうして生まれては消えていく、自分の脳が生む自動的な活動(本来的な性質)を客観的に観察することを求められる。そして、雑念や不可解なイメージが心の中に浮かんできたときは、座禅における坐(座り方)を整えることが求められる。つまり、体の不安定な状態こそが、心の不安定な状態を招いていると考えるのだ。心身一如であるとすると、体を整えることが心を整えると考える。同様に心を整えていくことが体を整えていくことも、同じプロセスを別の経路からたどっていることになるのだ。


 人によって好き嫌いや得意や不得手がある。そのために「道」の世界は多様化していったのだろう。お茶や書、器や空間が好きな人には茶道がぴったりあうだろうし、文字、書くこと、漢詩、言葉などが好きな人には書道がぴったりあうだろう。もちろん、師や学友との出会いも、その人にとって偶然でもあり必然の道を歩いていくためには重要な要素にもなるだろう。