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「きれいな心を持つ人が未来を創る」(きたもっく代表・福嶋誠さん)

きたもっく代表・福嶋誠さんが「きれいな心を持つ人が未来を創る」とおっしゃっていた。


この言葉に自分はしびれるものを感じた。


社会は何を原理で動いているのだろう?

イノベーション、AI、株価、社会はどこまでも騒がしくざわめている。



自然に還る時間が必要だ。

自然の中でぐっと耐え忍びながら、自然に逆らわず生きることを学ぶ。暮らしに華美なものはいらないからこそ、シンプルで美しいものを求める。そこに美の力が宿る。


社会の善と悪の線引きは法律が決めたりする。善と悪とが法律で線引きされるのであれば、法律で罰されないならやっていい、と、勘違いも生まれる。お金儲けもその類だ。


だからこそ、福嶋さんがおっしゃるような「きれい」という価値観をこそ大切にしたい。「きたないお金」という表現がある。それは、物理的な汚れを指すのではなくて、「きたない心で得た報酬」のことを指すのだと思う。そこでも「きれいな心」が生み出すものの違いが出てくる。それは目に見えないが、態度や言葉、生き方に間違いなく表現されている。


自分自身をきれいにする、清浄にする、浄化する。そうした場が必要だ。



北軽井沢のきたもっくは、まさにそうした場をつくり、実現させている。

自分が一番感動したのは、働くスタッフたちがみんな気持ちい人ばかりなのだ。きれいな心は、こうして態度や礼節として表出される。昔の人は、そのことを「霊性」と呼んだ。



北軽井沢のスィートグラスで過ごした数日間は、自分の心身を確実に「きれい」にして、浄化させてくれた。

必要なものは最小限でよい。あとは我が身ひとつで生きていく。生きる過程で花咲かじいさんのように、道に花を咲かせ、その場その場を歩む道を美しく、「きれい」にして行けばいい。



花びらはいつか枯れる。ただ、それは悲しいことでもなく。自然の摂理としか言いようがないものだ。

浄土真宗の僧であった金子大栄が言った「花びらは散っても花は散らない。 形は滅びても人は死なぬ」と言う事の本質は、そうした諸行無常の中で、本質を追求して己を磨き、美しく生きてゆく、ということではないだろうか。

















北軽井沢のきたもっくでは、浄土を旅したような数日間で、軽井沢に戻ってきても、なんだかフワフワしている。


身体の境界の垣根が薄くなり、自然と溶け込んでいたからだろう。この感覚は山岳部時代以来に久しぶりの感覚だ。

自然と対峙するのではなくて、自然と融合する。垣根がなくなるまで。その時に心身は浄化されてきれいになり、身体に風が通って、攪拌され、いのちは、新しい組成となる。



2月9日の最終日、ちょうど日経新聞できたもっくが特集されていた。

その見出しは「効率が悪い、だから楽しい」という見出しが。









IT化、AI化は、人類が通るべき壮大な社会実験のプロセスの一コマ。効率性と合理性が追及されていく。コスパは行きつくところまで行くと、その先には虚無しかなく。ストンと穴に落ちる。


ITやAIでそぎ落とされたものが、楽しさや喜び、の感覚かもしれない。そこでは生きる喜びが失われる。


だからこそ、自分は楽しさや喜びをこそ、より探求していきたい。それは快楽で生きるのではなく、より深い場所でいのちがピチピチと躍動する感覚だ。社会がどうあろうとも、それはそれ、として距離をとって、心身や命の声に戻らないと、道を見失うだろう。



さすが日本一のキャンプ場と称される場だ。日本中にファンがいることも頷ける。


人間が自然に対して必死に働きかけラブコールをし続けることで、いのちの力が引き出される、驚くべき場だった。ドアをノックするだけではなく、ドアをノックし続ける必要がある。まさに「いのちが呼びさまされる」場だった。




巨大な浅間山は、無言で何も語らない。だからこそ耳を澄ます必要がある。それでも山は語らない。それでも耳を傾けてみる。


すると、自分自身のいのちの声が聞こえてくる。山は巨大な鏡だ。外側が内側にベロンと裏返る。結局、自分の中にある「いのち」という仕組みの中にすべての答えが謎々のように込められている、と気づかさせてくれる。













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