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「タイムライン」@東京芸術劇場

福島県内の中高生が作り上げるミュージカル。

作・演出を藤田貴大さん(マームとジプシー)、音楽を大友良英さんが担当して制作の核となり、振付を酒井幸菜さん、写真を石川直樹さん、衣装をスズキタカユキさんが手がける。

2016年に初演し、今年で3回目になる。

福島での公演のあと、昨日は東京での初演だった。

本当に素晴らしい舞台で、胸がいっぱいになった。

すごい力作で、出演者たちの生きる情熱が爆発するかのような圧倒的な作品だった。

 

「タイムライン」というタイトルに込められているように、福島に住む普通の中高生たちの日々の暮らしが、主軸となる。

舞台の床には暮らしている福島の地図が描かれ、観客はせりたった山側のような席から、陸のように見立てられる舞台を見下ろす形になる。舞台の奥には中高生のバンドが控えていて、バンドの場所は海のようにも見える。

陸では中高生の暮らしが複数のタイムラインで展開され、交錯しあい、海ではその生活を支えるリズムとしての音楽が奏でられているかのように。

わたしたちの暮らしや生命を支えるのは、海のリズムだ。

呼吸のささえる呼吸のリズムも、海のリズムからやってきた。

海、陸、山。水が循環することで自然という生命は展開している。

中高生だからと言って、演劇が下手なわけではない、ということがよくわかった。

なぜなら、わたしたちが日々送っている生活自体が、ある種の演劇空間のようなものだからだ。日々の生活の中にこそ、演劇の種はある。

たとえば、誰かに怒るとき、たとえば、いらっとするときを考えてみる。

自分の底から感情がやってきて、その感情の濁流に流されるように身体が動く。

後で客観的に思い返すと冷静になるが、感情や感覚に巻き込まれている時には、自分自身を冷静に見ることはできない。

演劇は、そうした感情の流れ、身体の動きを、ある守られた空間の中で、ある筋(プロット)と共に、あるルールを共有するひとたちが再構成しているようなものだからだ。

わたしたちが何気なく送っている暮らしの中にこそ、演劇の種はある。

誰もが、一定のルールや役割の中で「複数の自分」を展開させるように「自分」という演技を演じている。

そして、その演技を支えているのが、社会の中で育まれてきた見えないルールだったり、自分が無意識で行っている動作だったりする。

演劇では、そのルールをどれだけ固く作るか、ゆるく作るか、そのあたりの手綱の握り方が、演出家や作り手のセンスなのだろうと思う。

今回の舞台は、最低限のルール(おそらく、それは「ゲーム」の中にある役割や立場が流動して果てしなく続けていけるルールだ)だけを設定し、その中で個々の自然な動きや感情が水のように流れていくような舞台だった。

まさに、ひとりひとりが水のように流れて終わりなく動く。

ときに人々の流れはせき止められうっ滞する。

ときに人々の流れは暴れて濁流となる。

ときに人々の流れは軽やかに健やかに還流していく・・・・。

まさに、それこそが私たちの感情の流れのようなもので、人々の暮らしであり日常だ。

大河の一滴一滴には、ひとりひとりの暮らしがあり、人生がある。

個人というミクロへのズームイン、ひとびとというマクロへのズームアウト、そうしたものが絶妙な塩梅で混ざり合い、流れあっていく。

観客として見ている側は、山という定点から見る観察者のようでありながら、舞台(陸)と音楽(海)という大自然の運命共同体となるように、舞台という全体性を見守る存在のように、まるで太陽のような存在のように昇華されていく。

 

藤田貴大さんと大友良英さんの「誰も排除しない。誰にも何か役割がある。ただ、それは自分で発見しなければいけない。」という力強い優しさのようなものが、作品の中からフレーバーのようににじみ出ていた。

舞台では、中高生から発される溢れんばかりの情熱に、終始圧倒され、揺さぶられた。

情熱は英語でpassionだが、passionには「情熱」だけではなく、「受難」や「苦しみ」の意味もある。passiveは受け身、という意味でもある。

「時計草」という花は、学名Passiflora、英語名passion flowerと言う。

(画像は、Wikipediaトケイソウ、より)

16世紀、中南米に派遣されたスペイン人の宣教師たちがこの花をはじめて見たとき、アッシジの聖フランチェスコが夢に見た「十字架上の花」を連想した。 この夢は、「キリストの受難」を象徴する夢で、十字架、釘、茨の冠、10人の使徒、、、などの風景をこの花に重ねたのだ。 「キリストの受難(passion of Christ)」から「passion flower」と命名された。 日本では、むしろ「時計」の形を連想したため「トケイソウ(時計草)」という名になっている。時を刻む花として。

passionの語源は、ラテン語のpatior、「苦しむ」「耐える」から来ていて、自分が望むと望まないとにかかわらず、自分の身に何かが降りかかってきて大きな作用を受けてしまうことが元々の語源だ。そこから受難、苦しみ、受け身の意味が出てくる。

そのことで強い感情の変化や動きがもたらされる。そうした感情の動きから「情熱」という意味も後から加えられるようになったらしい。

情熱は、苦しみや受難の体験から生まれてくる。

わたしたちの暮らしには、受け身として、あちらからやってくる、としか表現できない体験に満ち溢れている。

受難としか、苦しみとしか表現できない体験の場合もある。常に受け身だ。合理的には説明できないし、納得もできない。

仏教の始祖であるブッダも、生きることの根底には「思うようにならない」という意味での苦しみがあって(四苦)、それを土台にして自分の思想を形作っていった。

ただ、それでも時間は流れていくし、人は生きている限り、生きていく。

受難を生きる力に変え、生きる情熱へと変える力も、わたしたちは生命の中に「受け身」で与えられ、備わっているからだ。

それは、芸術や芸能、演劇や音楽、あらゆる形態をとった人々の営みの中に込められて、受け渡され続けている。今も、まさに。

ひとは生きている限り、莫大なエネルギーを秘めている。

あとは、その潜在的なエネルギーを深い泉からくみ出して、たくまくしく生きる力へと、誰をも排除せず共に生きていく力へと変換させていく適切な水路づくりが大事なのだ。それは個々人の中でも、社会の中でも。

そうした生命力みなぎる力を引き出した、「タイムライン」という作品は素晴らしかった。歴史に残る名演だったと思う。

最後のあいさつに、藤田さんも大友さんもあえて顔を出さず、すべて中高生だけの挨拶だけで終えていた。そこに込められた無言のメッセージにも、自分は胸が熱くなった。

あなたたちへ、もうバトンは渡したんだ、と。

ミュージカル「タイムライン」

2018年3月24日(土)・25日(日)福島県 白河文化交流館 コミネス 大ホール

2018年3月29日(木)~31日(土)東京都 東京芸術劇場 シアターイースト

作・演出:藤田貴大

音楽:大友良英

振付:酒井幸菜

写真:石川直樹

衣装:スズキタカユキ

監修:平田オリザ記録

映像:高見沢功

出演:福島県の中学生・高校生

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