将棋とは「あらゆる可能性に敬意を払うこと」
- 13 時間前
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将棋とは、「あらゆる可能性に敬意を払うこと」である。

わたしは小学生~高校生の頃、将棋狂だった。
将棋の相手を求めて、色々な将棋会館をわたり歩いたのも懐かしき思ひ出。
江戸時代、将棋は単なる遊戯ではなかった。
大橋宗桂を祖とする家元制度が整えられ、将棋は一つの文化として磨かれていった。
初代 大橋宗桂は最初の将棋名人(一世名人)で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人に将棋の実力で仕えた。現在の「名人」という言葉のルーツは大橋宗桂にある。囲碁の家元・本因坊算砂と指した将棋の記録(棋譜)が現存する世界最古の将棋の棋譜で、後陽成天皇へ献上した公式な詰将棋集も最古。
その歴史をたどる漫画(『宗桂 〜飛翔の譜〜』(作画:星野泰視 / 監修:渡辺明))を読むと、盤上の勝負の背後に、
日本人が「考えること」そのもの
を文化として育ててきた時間が見えてくる。




私も、中学生時代の将棋大会で、江戸時代の棋譜を指して将棋記者から驚かれたことがある(当時の熊本日日新聞にも載った)。当時の大スター羽生さんの棋譜だけではなく、江戸時代の大橋宗桂の棋譜からも学んでいたからである。
将棋が教育にも優れているのではないかと思うのは、単に先を読む力が身につくからではない。
一手を考えるとは、自分が最初に思いついた答えをいったん疑うことである。
「この手しかない」と決めつけず、別の手を読む。
弱そうに見える手、常識外れに思える手、相手が指すはずがないと思う手にまで可能性を開いておく。
それは、偏見を捨てる訓練でもある。

さらに将棋では、自分の考えだけでは勝てない。相手の立場に入り、「相手ならどう考えるか」を想像し続ける必要がある。
つまり盤上では、あらゆる選択肢に可能性を見いだし、あらゆる可能性に敬意を払うという哲学的な営みが繰り返されている。
AIが最善手を瞬時に示す時代だからこそ、子どもには、答えそのものよりも「なぜ、この一手なのか」と考える時間が必要なのだと思う。
将棋とは勝敗を競うゲームである以上に、世界にはいつも、自分にはまだ見えていない一手があることを学ぶための、小さな哲学なのかもしれない。
子どもに将棋を教えながら、同時に自分も子ども時代の記憶を取り戻す旅をしている。



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