『ブゴニア』(2026年、ヨルゴス・ランティモス監督)「誰の物語の中で、世界を見ているのか?」
ヨルゴス・ランティモス監督の『ブゴニア』(2026年)を観た。
(角田光代さんの『方舟を燃やす』(新潮社、2024)と通じるものがある映画だよと友人から言われたこと(陰謀論を入口としている点?かな。かなり遠い作品でしたが)+AmazonPrimeで観れたもので。ちなみに、この映画は暴力や残虐な描写があります。物語の展開にも触れます。)

観ている間、何度も足元が入れ替わるようだった。
誰の話を信じればよいのか。被害者と加害者は誰なのか。小さな物語だと思っていたものが、突然もっと大きな物語の一部になる。その転換が面白く、同時に恐ろしい。
「ブゴニア」とは、死んだ牛の身体から蜂が生まれるとされた、古代地中海世界の伝承に由来する言葉だ。
ローマの詩人ウェルギリウスは、これをギリシャ神話の人物アリスタイオスの物語に結びつけた。
蜂を失ったアリスタイオスは、その理由を探し求める。
やがて彼は、自分が追ったエウリュディケが逃げる途中で蛇に噛まれて死んだことを知らされる。
彼にとって最初は「蜂を失った自分の物語」だったものが、「自分には見えていなかった、他者の死の物語」へと広がる。
さらにエウリュディケには、彼女を冥界から連れ戻そうとしたオルフェウスの物語がある。
蜂は最後に帰ってくる。しかし、エウリュディケは帰ってこない。
ひとつの再生の物語の中に、取り返せない喪失が残されている。
『ブゴニア』の怖さも、この物語の入れ子構造にあると思う。
宇宙人だと信じる人には、その信念を中心にすべてがつながって見える。相手の反論さえ、自分の考えを裏づける材料になってしまう。
けれど映画は、その見方だけを観客に許してくれない。展開が変わるたびに、私たちも自分が拠り所にしていた説明を疑うことになる。
●映画『ブゴニア』本予告 | 2026年2月13日(金)全国公開
現実でも、こういうことは起きる。「あの人はおかしい」「あの集団が問題だ」・・・。
大きな物語には、複雑な世界を一度に理解した気にさせる力がある。その一方で、そこに収まらない一人ひとりの経験や痛みを、簡単にのみ込んでしまう。
相手を「話の通じない別の種族」だと思ったとき、心の距離は一気に開く。関係が絶たれれば、相手に何をしてもよいかのような感覚すら生まれる。
だからこそ必要なのは、大きな物語を持たないことではなく、それをいつでも「語り直せるものにしておく」ことだと思う。
この説明から抜け落ちているのは誰か。相手は自分の経験をどう語るのか。
新しい事実が現れたとき、自分の見方を変えられるか。
アリスタイオスが蜂の死を理解するために、エウリュディケの存在に向き合わねばならなかったように。
宇宙から地球を見る視点にも、同じ慎重さが要る。
人間社会の内側から一歩離れれば、人間も蜂も、同じ惑星の命として見えてくるだろう。
しかし、遠くから「地球全体」を語る視点もまた、目の前の誰かの痛みを見失えば、危険な大きな物語になりうる。
地球を遠くから見ることと、一人の声を近くで聴くこと。その二つを行き来したい。
神話も映画も、世界の唯一の正解を教えるものではない。
自分の知っている物語の外に、まだ別の物語があると気づかせてくれる。
『ブゴニア』の厳しい結末を経ても、そこに未来への希望を見たい。
失われた蜂を嘆くとき、蜂だけでなく、見過ごしてきた命にも思いを向けられること。
自分の物語を手放さずに、他者の物語によって変えられること。
心の距離を縮める第一歩は、そこにあるのだと思う。
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