中1国語試験問題に採用

「からだとこころの健康学」 (NHK出版、2019)から、Z会の中1アドバンスト国語の試験問題にも、採用頂きありがとうございます!自分は次の世代のためにも本を書き遺しているつもりなので、今年はたくさんの入試で使っていただき素直に嬉しいです。作者冥利につきます。


実際、自分も入試問題で安部公房を知り、三島由紀夫を知り、ドストエフスキーを知り、どっぷりはまり(実際に文学を読み始めたのは大学生からですが。それまでは漫画で勉強です)、、、という感じでしたので。



過去問で配布されるので公開可、とのことなので、問題なども解いてみてください。

中学1年生はこんな長文を読んで、こんな難しい問題を解くのかぁ、と感心しきりです。


自分も、Z会は高校3年のときに初めて知り(熊本は情報不足なので・・)、当時解いてみましたがえらく難しくて歯が立たず挫折した経験あります。Z会は当時から難しかったなぁ。今度は、自分に問題も作らせてほしい!








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稲葉俊郎「からだとこころの健康学」 (NHK出版、2019)より

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健康に注目が集まる場合には、局所的な話だけに集中していたり、断定的な極論に走りがちです。情報を得ることに一生懸命になり、あたまで納得したら終わり、からだはほったらかし。そうなれば、「あたま」が納得しやすいパターン化された情報が溢れるのは当然の流れです。

健康的な食品であっても、そればかりを食べすぎるとバランスが崩れることもあります。果物がからだにいいからと言って、毎日果物ばかり食べれば大丈夫だというわけではないのです。

また、ある特定の条件下での実験結果から、「〇〇を一日に△グラム摂取するとガンにならない」と導き出されたとしても、それがすべての人のどんな状況にでも当てはまるわけではありません。しかし、往々にして情報はその前提を無視して都合のいい結果だけが独り歩きします。私たちのからだは日々変化しています。いつでもどんな時も同じ結果が出るとは限らないのです。

さらに、「あたま」の考えが強すぎる人は、自分が立てた規則や原則を厳守することばかりにこだわる傾向があります。すると、「からだ」の求めと逆なことが行われ、「あたま」と「からだ」は逆方向を向いて動いていることもあります。


私たちのいのちは、あらゆる要素や条件が複雑に絡み合いながら、全体と部分とが綱渡りのように刻々とバランスをとり続けています。

心臓の治療をしていると、いのちが生死をさまよう瀬戸際、極限の領域に接することがあります。そのときは、とても深い海に潜っているようなイメージに包まれます。からだの深奥へと、聖域のような最深部まで降りていく。そこはとても複雑にあらゆる要素が絡み合っており、ほんの少しのズレが全体を危機的な状況へと追い込んでいます。その複雑さやバランスさえも一人ひとり違うのです。

大切なことは、まず自分自身のからだをしっかり知ることです。そのために、「からだ」のシグナルを感じ、「からだ」との対話の通路を開けておく。そのちょっとしたことが「健康」へとつながる道です。では、どうすればシグナルを感じることができるようになるのか。このことについては第4章で詳述します。


数値だけで判断しない


もしあなたが熱っぽく感じて病院に行ったとします。待合室で体温を計り、症状を記入し、診察室に入りました。医師は顔も見ずカルテだけで次のように言いました。

「風邪ですね。この薬を飲んでください。はい、次の方」

あなたはどう感じますか。

こうした医療行為であれば、今後はすべてAI(人工知能)がその役割を担うでしょう。自分で症状を入力して検索すれば、インターネットでも対応可能かもしれません。

「喉が痛い」「体温が三七度」など、いくつかのキーワードだけで判断するときは、まさに「あたま」だけの世界です。

「あたま」が生み出した「言語」の世界と「からだ」が感じる「感覚」の世界ではどういう違いがあるでしょうか。

言語の世界では、同じ特徴でグループ別に分類して異なるものを一括りにして把握します。それに対して感覚の世界では、一つひとつの感じ方が異なることを大切にして把握します。「同じ」にするのが言語で、「違う」を保つのが感覚です。「リンゴ」も言葉では一括りにされますが、手触り、匂い、味わい、色や形や大きさなど、実際の「リンゴ」は感覚的にはすべて異なります。

感覚の世界を大切にしている人は、手を動かし、触って、見て、嗅覚や聴覚も総動員させています。AさんとBさんが言葉の上では同じ症状を訴えているとしても、表情や顔つき、歩き方や話し方、肌に触れた皮膚感覚、口臭や舌の湿り具合などはすべて異なります。AさんとBさんの体温が同じ三七度だとしても、実際に触れると異なる温かさや冷たさの感覚があるはずです。数値だけを絶対視すると、三七度に違いは存在しなくなります。

「こういう感じがする」という感覚の世界は、ある意味では非科学的です。なぜなら、感覚の世界は、一人ひとり物差しが違い、異なることを異なるままに捉える世界であるため、何かの基準を立てて比較したり優劣をつけることができないからです。

例えば、ある絵を見て美しいと思う人がいる一方で、よくないと思う人もいます。感覚の世界では、絵の感じ方は人それぞれ異なるのが当たり前です。例えば、「形」で五点、「色」で三点、「構成」で四点などと数値化して、アンケートで膨大なデータを回収して、基準値を設定した上で七〇点だからいい絵だと評価したとします。客観的になり科学へ近づいた気はします。

しかし、その七〇点は果たして何を意味しているのでしょうか。数値化されたものは独り歩きを始める危険性もあるのです。言語で概念的に把握することは否定しませんが、絵そのものを自分の感覚で受け取った時、自分がどう感じたかが抜け落ちてしまっては、何のために絵を見ているのか分からなくなります。


自力と他力


医療が発達していなかった頃、情報が流通していなかった時代では、体調が悪くなれば、薬草を煎じて飲んだり、からだを休めて休養したり、「こうすれば良くなった」という経験を積み重ねて実践していました。それらの多くは感覚的なことだったと思います。

なかでもよく行われていたのは、環境を変えることです。温泉地に行って湯治場に長期滞在をして体を休めたり、森のような空気の良い高原で休むことで療養していました。

医療の力や薬の力という他力だけでなく、例えば環境をがらっと変えて自分のからだを根本から変化させて自然治癒力を高めること、つまり自力の養い方を深めることも大切だと思っています。この「自力」については第4章でも詳述します。

いま、私は西洋医学の世界で医師として働いているので、どうしても東洋医学や伝統医学の良さばかりを強調しているように聞こえるかもしれません。しかし、西洋医学以外にも目を向けているのは、他力(西洋医学)と自力(東洋医学や伝統医学)のバランスが大事だという実感があるからです。

「いのち」の働きを大切にして生きていくときに大事なことは、普段は自力を養い、非常事態や困ったときに他力に頼るという二本の柱だと考えています。私たちのいのちは、自力と他力のグラデーションの「あわい」を行ったり来たりしています。自力と他力のバランスが、ひとそれぞれに与えられた条件や、時代や環境によって異なるからです。


努力が引き起こす危険


一般的に「自力」というと、自分のことは自分でする、努力次第で何とかなると捉えてしまう人もいるかもしれません。そこで、ここでは自力とはそのようなものではないことを押さえておきたいと思います。

人間は、全ての人が「同じ」ということはありません。例えば、その人が生まれ持った「資質」は異なります。それは優劣や善悪ではなく、「違い」です。

例えば、足が早い「資質」を持った人は、その資質をどんどん伸ばせば陸上選手になれるかもしれません。数学の資質がある人は数学者になるかもしれませんし、絵を描くことに資質がある人は画家やデザイナーになるかもしれません。

人間だけでなく、動物も野菜も同じです。トマトの中でもプチトマトもあれば、野性味溢れる昔懐かしい味のトマトや、甘いフルーツのようなトマトもあります。トマトにはトマトとしての資質があります。

現代のわたしたちは、それぞれの資質を共に発見することよりも、ある型に一律に当てはめることに懸命になってきました。その背景には、第1章で述べた「あたま」の世界の強大化があると思います。「あたま」は、「~すべきだ」の行動原理が標榜されると、疑いなく前に前に突き進んでいくからです。

すると、自分の中でわき上がる「こころ」や「からだ」の声を押し殺し、「あたま」で必死に合理化して自分と言う全体を欺いてしまいます。

「とにかく勉強しなければいけない」

「仕事は我慢してしなければいけない」

自分の「あたま」が生み出した義務や強制の言葉に従っていると、「からだ」や「こころ」のシグナルを感じにくくなってしまいます。


キュウリの形のトマト


嫌々でも努力しなければいけない・強制や命令に従うのが当然である。そんな価値観が引き起こす弊害の一つに、「からだ」や「こころ」の病気の問題があると思います。それらの価値観は結果的に、さまざまな「からだ」や「こころ」の症状となって現れるため、医療の問題として私たち医者が診ることになるのです。

例えば、仕事を例にして考えてみましょう。自分の資質に合った仕事であれば、仕事に熱中し、好きになり、心身に無理はかかりません。しかし、「本当はいやだけど、みなと同じように努力をしなければならない」と思いながら、むしろその思いを巧妙に隠しながら仕事をし続けていると、頑張れば頑張るほど自分の感覚を閉ざすことになります。そして、ある日突然、からだが耐えきれなくなり大爆発が起きます。蕁麻疹などからだからの反乱が起きる、「こころ」がストライキを起こして動けなくなる。「からだ・ここころ」の不満が貯まれば貯まるほど、表に爆発するときは「からだ・ここころ」が大惨事に見舞われてしまうことも多いのです。

私たちは何もしなくとも、命の力で育ちます。トマトを細長いケースに入れて色を塗れば、見た目はキュウリのようになるかもしれませんが、中を切るともちろんトマトのままです。トマトはどう育ててもキュウリになりません。トマトはトマトの資質があるので、どんなに型にはめても、トマトはトマトのままです。