『万引き家族』(是枝裕和監督)
是枝裕和監督の『万引き家族』を見た。
かなり深く硬派な映画だった。
疎水結合のように、社会から疎外されたひとたちが互いをひきつけあい、ひとつの家族として生きる姿を描く。
ひととひととがつながる、ということは何なのか、そのことを改めて考えさせられた。
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人は、与えられた条件の中で、必死に生きる。
生きる中で、多少のズレは起こる。
ただ、そのすこしのズレを軽んじていると、小さなズレが積み重なり大きなズレへと拡大し続けていく。ズレは自分の中に複数の断層を生み、自分の中が途切れ続け、分断され続けていく。
大人は言葉を覚え、同時にウソをつくことも覚える。ウソを操ることで別のリアリティーを立ち上げる技術を覚えてしまい、自分にも周りにもウソをつくことですべての現実が巨大な虚構の中へと覆われていく。ウソがホントになり、ホントがウソになり、虚構の現実が増殖し続ける。
そうした関係性の中で、つながりあった人たちは、それぞれの内部に抱える断層同士がつながりあう。全体としての回路はつながっていないのだが、部分だけが強固につながりあう便宜的な関係性になる。
つながりから疎外されたからこそ、つながりの必要性を強く感じ、強く求める。ただ、同時につながりを激しく嫌悪る。内部に巨大な自己矛盾を抱える。
社会のいろいろな暗部は、人間の影が生み出したものだ。
人間の影が寄り集まることで、社会の影に栄養を与え、成長させていく。
影が作り出す負の連鎖を最終的に断ち切ることができのは、ウソとマコトの現実の分岐点で立ち止まり、どちらに進むべきか逡巡して迷っている子供という存在なのかもしれない。それは、ある意味での希望だ。子供は希望の存在として世界に対峙している。
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この映画を見た後に、村上春樹さんの短編集『回転木馬のデッド・ヒート』に収録されている「ハンティング・ナイフ」という非常に印象深い短編を思い出した。
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「家庭というものは本質的にはそれじたいが前提でなくてはならないんです。
そうじゃないとシステムがうまく機能しない。
そういう意味では僕はひとつの旗じるしのようなものです。たくさんのことが僕の動かない脚を中心として作動しているとも言えるんです。・・・・僕の言っている意味わかりますか?」
わかると思う、と僕は言った。
「欠落はより高度な欠落に向い、過剰はより過剰に向うというのが、そのシステムに対する僕のテーゼです
ドビュッシーが、自分の歌劇の作曲が遅々として進まないことを表して、こんな風に言っています。
『私は彼女の創りだす無(リヤン)を追いかけて明けくれていた』ってね。
僕の仕事はいわばその無(リヤン)を創りだすことにあるんです。」
村上春樹「ハンティング・ナイフ」(1985年)より
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このドビュッシーの印象的な言葉は、最新作である『騎士団長殺し』でも引用されていた。
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「オペラの創作に行き詰まっていた次期について、クロード・ドビュッシーは
『私は日々ただ無(リアン)を制作し続けていた』
とどこかに書いていたが、その夏の私もまた同じように、来る日も来る日も『無の制作』に携わっていた」
村上春樹「騎士団長殺し 第1部」(2017年)より
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『万引き家族』の人々は、全員が「無(リヤン:rien)」を創りだし、抱えている。それをどう扱えばいいのか、分かりかねている。人々は更なる欠落へと向かう。もしくは過剰へと向かっていく。
その中で、樹木希林さんの醸し出す「無(リヤン)」のたたずまいは、それはそれは見事なもので、惚れ惚れする圧倒的な存在感だった。
「無(リヤン)」を引き受けて、「無(リヤン)」と共に生きる老いの姿は、高僧のようであった。
やはり、是枝裕和監督の映画はすごかった。
そして、すべての俳優の演技が、すばらしかった。