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田口ランディ「逆さに吊るされた男」

田口ランディさんの新刊「逆さに吊るされた男」河出書房新社 (2017/11/11)を読んだ。 別世界に連れ去られたかのように、一気に読んだ。 圧倒的に面白かった。作家が存在をかけて書いている、まさに「渾身」の作品だ。

 

<Amazon 内容紹介> オウム真理教とは何だったのか、 私だけが、真実に辿りつけるはず――

地下鉄サリン実行犯/死刑囚Yとの十年を超える交流 実体験をもとに、世紀の大事件を描く衝撃の私小説

地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚Yの望みで、 外部交流者となった作家・羽鳥よう子。 贖罪の日々を送るYと、拘置所での面会や手紙のやりとりを重ねるうち、 羽鳥はこんなに穏やかそうなYが 《なぜ、殺人マシンとまで呼ばれるほどの罪を犯したのか》という疑問を抱く。 《警察も、マスコミも、世間も、間違った解釈でオウム真理教事件を過去のものにしてしまった。 Yとの出会いは運命。私だけが、事件の真実に辿りつけるはず――》 関係者に会い、教義を学ぶうち、そう確信した羽鳥は、 ついにYとの交流をもとに『逆さに吊るされた男』と題した小説を書きだし、 独自のオウム解釈にのめり込むのだったが……。

 

この小説は、ランディさん自身が実際に地下鉄サリン実行犯の死刑囚と、十年以上の交流をしている経験がベースにあって書かれている。(死刑囚は、指定した数少ない人とだけ会話ができるが、ランディさんの本の愛読者だったY氏は、ランディさんを面会相手に指名したからだ。)

塀の内と外で実際に交わされた膨大な会話をベースにしながら、あくまでもフィクションとして「逆さに吊るされた男」という小説は提示される。小説の主人公も、作家だ。

ただ、現実とフィクションとは境目なく干渉しあっている。読み手はこの現実へと無事に帰還してこなければいけない。 (そもそも、このタイトル自体が、謎に満ちている。)

 

この本を読んでいて、自分も改めて分からなくなったことが、 果たして「反省」って何なのだろう、

ということだ。 反省、謝罪は誰のため?予防のため?心からの反省とは??

犯罪者は「反省」を求められる。 最近は、不倫などの問題が大きく報道されるが、ここでも「謝罪」や「反省」が求められる。

通常の社会でもそうだ。 一言も詫びがない、ということで、死ぬまで、いや死んだあとでさえも恨みを持ち続ける人もいるくらいだ。その気持ちはなんだか自分にもわかるが、それって相手にとって、自分にとって、社会にとって、果たして何なのだろう・・・。

もちろん、反社会的行動で逮捕された人が、その後社会に復帰してくるとき、また同じことを繰り返さないために「反省」するというのはよく分かる。予防のために。

しっかり「反省している」と認定されると、減刑されることもある。

ただ、 そうなると、「反省の見本」のようなものが生まれる。 正しい謝罪はこうだ、などの記載もよく見るし、その場合の謝罪や反省というのは、ただの形やフォーマットのことになってしまう。演技になる。 うまい反省やへたな反省、って何なのだろう。

 

人は無意識的に演技をして生きている生き物だ。 意識的に演技している場合は「嘘」とされるが、多くの演技は無意識だ。 すべてが無意識に飲み込まれてしまった場合、何がその人にとっての本当で、嘘になるのだろう。

嘘を嘘と永遠に認識できなければ、すべては本当になってしまう。

この社会では、あらゆるもめごとやいさかいが、日常的に起きている。 トラブルも後がひけなくなると、犯罪にまで発展していく場合もある。 小さな事件も多いが、大きな事件も多い。 人は関係性の網の目を出ることはできないから、生きているだけで必ず人と人とで摩擦や干渉が起き続ける。

巷で報道される事件を、 ・一部のおかしい人が起こした、例外的な事件である、自分には何も関係がない、として関わらない方がいいのか。(自分は、距離をとりたい、関わりたくない、というのが正直な感想だ。) ・それとも、何かそこから「教訓」のようなものを引っ張り出し、次の世代のための予防策としてそこから多くを学びとるべきなのか。

自分は、前者と後者の間で揺れ動く人間だ。

後者をとりたいが、すべてにおいて深く考えていくことは難しい。

それほど、この世界の問題を見ようと思えば、問題が無限増殖のように現れて飛び込んでくる。インターネット世界も、そうしたところがある。

この「逆さに吊るされた男」の小説は、事件の深い森のような中に入り込んでいく書き手の視点で話は進むのだが、ある時に「超自我」や「自己」(自分を上から俯瞰する自分)のようなものが自分の中に出現してきて、「あなたが意味を求めて事件に関与していくこと自体が、あなたの自我の欲望ではないか、あなた自体のどういう深層心理と呼応しているのだ」と警告を発する。そのアラーム音に気づきながら、そのはざまで揺れ動く書き手自身の心理をも同時に描いていた。作家の心をさらけだしながら描かれるすごい作品だ。

 

あの事件は果たしてなんだったのか。 それぞれが問うことは、どういう意味があるのか。

集団が生んだ強烈な思想や考えは、ファンタジーのように多くの人を巻き込み、行動へと動かした。 それは、小説が別のリアリティーを立ち上げていくことと、表裏一体のような関係にある。

疑いの隙が一ミリも生まれないほどのチリひとつない世界の中で生きれたら、どんなに楽だろうか。 すべて疑う必要がない。すべて信じる事しかない。

信じ続け何も疑問を感じない人生。ある意味では魅力的な世界だ。

それは想像にしかないアンリアルな世界なのだろうか。

人間は、催眠的で、中毒的なものに、弱い。 閉鎖的な場所では、それが世界のすべてとなり、冷静な判断は奪われる。 そもそも、自分自身が奪われている事すら気づかないことが、特徴なのだ。

ひとは、いつのまにか何か巨大なシステムの中に取り込まれると、その役割を演じるようになる。 職業としての役所、政治家、医者、弁護士、、、 関係性としての親や子供、息子や娘、男性や女性、、、、、。

あらゆるシステムの網が張り巡らされている。

この世界のすべてのシステムから出ていくことは、ほぼ不可能だ。

出家と言って俗世間から出て行っても、出て行った先の世界では、また特有の階層構造(ヒエラルキー)という名のシステムが待っている。遠い惑星の裏側にでも行かないと、システムから逃れることはできない。

 

本の内容に関係あるのかないのか、よくわからないことを長々と書き連ねたが、こうした複雑な手触りが深く残っている。

「罪」とは?「反省」とは?「宗教」とは?「信仰」とは?「組織」「システム」とは?・・・・ いい小説とは、こうして何か自分の中を沸騰させ、ざわめきを起こすものだ。

小説は、フィクションという別のリアリティーを差し込むことで、この現実世界をより立体的に味わうことができるものだと、自分は思う。

だから、こうした沼のような深い森のようなテーマを扱う小説世界に入り込んでいくことで、今生きている現実が、より厚みを持って迫って来るような感覚になる。

回転扉のように世界が一度反転して、何かが自分の場所を通過して、またくるっと戻ってくるような感覚だ。

不思議な読後感と、大きな充実感が残る。

渾身の小説だった。 こういう小説を書いた作家の心身の健康が心配になるほどだ。 心の極北に連れて行かれて戻ってくるような感覚になった。 力作です。

田口ランディさんの「今」が分かります。

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