© All right reserved TOSHIRO INABA

仏教の分水嶺

October 27, 2017

10/24火曜は、GOBLIN代官山で「藤田一照X稲葉俊郎 禅から観るいのち・家族~関係性のネットワークとは?」(磨塼寺主催公開イベント)があった。
GOBLIN代官山は気持ちいい空間だった。キッチンもついていた。

 

 

トークのメインは「つながり」について。
性の問題も家族の問題も、「つながり」の本質からそれてしまうと、疑似的な性になるし、疑似的な家族になる。


「つながり」の前提とは何か、という部分からはじまった。
それは自分自身の態度である、として、実際に体を使うワークショップで体験してもらった。

 

対話は、自分も相手も肯定している態度からしか、はじまらない。

そこはスタートであり、同時にゴールでもある。

I'm OK, you are OK.

 

多くは、自分を否定するか(I'm not OK)、相手を否定するか(You are not OK)、その両者が複雑に混在している。
自己否定と他者否定はペアになっていて、表と裏だ。

 

そして、そうした自己否定や他者否定というのは、頭の問題なのだが、如実に体の問題としても反映してくる。

 


自己否定では体は内側に折り曲がってくる。猫背になり、呼吸も浅く苦しくなってくる。
他者否定では自分を威圧的に大きく見せるために、背中に大きくそらせて、人を見下ろす視点をとる。態度は自然に尊大となる。ただ、それは自信のなさの裏返しでもある。

そうした態度が、その人の存在感を作り出し、場を作り出す。

 

 

 

そうした頭と体との不思議なリンクを感じてもらいながら、自分も相手も肯定するとはどういうことか、それを身体感覚で感じてもらった。

 

おそらく、身体で感じた人は、心が温かくなったり、心のスペースがひろがったり、環境と自分とがつながりを持つように感じられたり、体が喜ぶ身体感覚を得ただろう。

そうした身体の記憶を入り口として、対話を始めたい、ということをワークショップ形式で行った。

 

 

 

その後は色々なことを話した。


一照さんに、仏教と仏教ならざるものをあえて分けるとしたら、どこに分水嶺があるのか?という質問をした。もちろん、仏教はそうして分ける作業を分別知と言って嫌うのだが、あえて境界線をひくとしたら、という問いとして。

 

 

仏教は関係論であり、仏教ならざるものは実体論である、というのが面白かった。

 

実体論とは、ある具体的な物や事にこだわる。
それに対して関係論とは、周囲の関係性の中で、結果としてある現象が生まれて、その関係性の結果の現象を見ていると考える。
まさに、ドーナツの穴だ。

 

 


ドーナツの穴だけを欲しいと言っても、それは無理だ。
なぜなら、ドーナツの身の部分があることで、はじめて穴が生まれるのだから。

それは「わたし」をどう捉えるのかの大きな違いとしてもあらわれる。
確固とした「わたし」を定義するのか、それとも「わたし」は関係性の結果として立ち上がる現象としての「ドーナツの穴」と捉えるのか。


そんなこんなをワーワーと話していたら、あっという間に時間になった。

 


性や家族やお金の問題。
このあたりは仏教で多くを語られてこなかったが、それはブッダがあえて未来の僕らのために考えるための宿題を託したとも言える。


そして、自分は性や家族やお金の問題も、本質はそうした両者肯定の立場(I'm OK, you are OK.)に立って物事をスタートできるかどうか、というのが対話の前提だと思う。


一照さんとは、今後もまた深く本質的な話を掘り下げていきたいと思う。


頭での理解と、体での身体的な理解。
この二つがいい塩梅でかみ合うことが大事だと思うので、実際に会って話をできるのはこんなに楽しい時間はない。

(写真は藤田一照さんからご拝借)

 

 

 

 

Share on Facebook
Share on Twitter
Please reload