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「みみずくは黄昏に飛びたつ」村上春樹、川上未映子

May 30, 2017

村上春樹さんのインタビュー本でもある、「みみずくは黄昏に飛びたつ」(新潮社、2017年)(村上春樹、川上未映子)を読んだ。
本当にほんとうに面白かった。

 

 

 


川上未映子さんの春樹文学愛がにじみ出ている。
だから、最高のインタビュアーであった。
しかも、同じ作家という作り手からの目線があるため、相手への敬意がある。

深みのないインタビューでは、対話の基礎として最も重要な尊敬や愛のようなものが欠損していることが多い。

川上さんという最高の聞き手により、村上春樹さんの在り方をとても素直に写し取ったいい本だった。


自分も春樹文学をなめるよう眼力で穴があくほど読みこんでいるが、春樹文学を解析したり解剖したりする趣味はない。
作者が語っていることがすべてだ。

作者の語りの中に含まれる倍音に、耳をすませば、もっと深く小説へと入り込むことができる。

  
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P9
はじめに
 
大切なのはうんと時間をかけること、そして「今がその時」を見極めること。
村上さんはくりかえしそれを伝えてくれたように思う。
ミネルヴァの梟(ふくろう)がそうであるように、物語の中のみみずくが飛び立つのはいつだって黄昏、その時なのだ。
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「時」を待つにも、「時を待つ力」がある。
それは、時を信頼していなければいけないし、その信頼は、自分の経験や他者の経験からしか獲得できないものだと思う。
 


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P21
小説の中では、多くのものごとは自然発生的に起こっていかなくてはならない。ここではこういうエピソードを使っておこう、みたいなことをやっていると、話はもちろんパターン化していきます。ぱっと出てくるものを相手に素早く動いていかないと、物語の生命が失われてしまいます。
 
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P24

(チャンドラーから学んだのは、比喩の構造についてということですか?)
比喩っていうのは、意味性を浮き彫りにするための落差であると。
だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあってここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなっていうのが、目分量でわかります。
逆算するのがコツなんです。ここですとんとうまく落差を与えておけば、読者ははっとして目が覚めるだろうと。読者を眠らせるわけにはいきませんから。
そろそろ読者の目を覚まさせようと思ったら、そこに適当な比喩を持ってくるわけ。文章にはそういうサプライズが必要なんです。
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P26

(ただキャビネットを持っているだけでは、動かないんですね。)
さっき言った比喩と同じで、一番適当なものがすっと来てくれないとしょうがないですよね。
というか、呼び寄せないといけないんです、いろんなことを。ものを書くっていうのは、とにかくこっちにものごとを呼び寄せることだから。
 
イタコなんかと同じで、集中していると、いろんなものがこっちの身体にぴたぴたくっついてくるんです。磁石が鉄片を集めるみたいに。その磁力=集中力をどれだけ持続できるかというのが勝負になります。
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春樹さんの「比喩」の説明が面白い。

春樹作品には極めて美しく楽しくユーモラスな比喩がちりばめられている。

それらの比喩は、比喩だけで独立した一節としても美しく面白く(自分も時にメモしてしまう)、それが文章のリズムを作り出しているのかもしれない。

比喩は、まったく異なると思われるものの共通性をコトバで表現することで、脳の中に別の回路が生まれ、見たことのない状況が浮かぶ。

アートでいうコラージュ作品のようなもので、優れた作品は、既知の説明ではなく、未知の扉を開いてくれるのだ。

 
 
 
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P36
「ぼくがいつも言うことだけど、優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない。それはすごく大事なことです。」
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P37
「本当のリアリティっていうのは、リアリティを超えたものなんです。事実をリアルに書いただけでは、本当のリアリティにはならない。もう一段差し込みのあるリアリティにしなくちゃいけない。それがフィクションです。」

(でもそれはフィクショナルなリアリティじゃないんですよね。)
「フィクショナルなリアリティじゃないです。あえて言うなら、より生き生きとしたパラフレーズされたリアリティというのかな。リアリティの肝を抜き出して、新しい身体に移し替える。生きたままの新鮮な肝を抜き出すことが大事なんです。
小説家っていうのは、そういう意味では外科医と同じです。
手早く的確に、ものごとを処理しなくちゃなりません。ぐずぐずしていると、リアリティが死んでしまう。」

(それを知っているということ自体が、大きいエンジンの一つですよね。)
「そのとおりです。」
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P91
「罠というものは、嵌まるときはすぽっと嵌まっちゃうんですよね。」とすらっと言っても、多くの人はたぶんうまく実感できないでしょう。
その構文をいった物語という次元に移行させなければ、ものごとの本質はうまく伝えきれないんだな、と僕はあの本(『アンダーグラウンド』)を書いていて実感しました。
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この「リアリティ(Reality)」に関する卓見には絶句するほど心に響く、
小説だけではなく、演劇でも音楽でも美術でも、、、、すべてに通じる話だ。


「リアリティ(Reality)」は、人自体の中でも層構造になって重なっているし、それぞれが独自の「リアリティ(Reality)」を元に日常を生きている。

「リアリティ(Reality)」は他者との相互作用でもどんどん生成されていく不思議なものだ。
自然が生み出した明滅現象のようなものだろうと、思う。
 
 


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P39
僕のボイスがうまく他の人のボイスと響き合えば、あるいは倍音と倍音が一致すれば、人は必ず興味を持って読んでくれるんです。
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P39
「自我レベル、地上意識のレベルでのボイスの呼応というのは、だいたいにおいて浅いものです。
でも一旦地下に潜って、また出てきたものっていうのは、一見同じように見えても倍音の深さが違うんです。
一回無意識の層をくぐらせて出てきたマテリアルは、前とは違ったものになっている。
それに比べて、くぐらせないで、そのまま文章化したものは響きが浅いわけ。
だから僕が物語、物語と言っているのは、要するにマテリアルをくぐらせる作業なんです。それを深くくぐらせればくぐらせるほど、出てくるものが変わってくるんですよね。」
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P40
インタビューもそうですよね。
例えば『アンダーグラウンド』でインタビューした時も、相手はプロの書き手ではない、普通の市民の方々ですから、インタビューした後、テープ起こしをしたものを、僕自身の中に一回くぐらせるんです。いや、逆に僕自身を相手の話の中にくぐらせると言った方が近いかな。
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P41
僕は事実的には何一つ足したり引いたりしていないから。
僕はただその人のボイスを、より他者と共鳴しやすいボイスに変えているだけです。そうすることによって、その人の伝えたいリアリティは、よりリアルになります、そういうのはいわば、小説家が日常的にやっている作業なんです。
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その人のどこを通過して生まれてくるか、っていうのがやはり質を担保すると思う。
だから、苦労や苦難は決して無駄ではない。

ただ、何でもいいから苦労すればいい、という単純なものではない。

どこまで自分のエッセンシャルな部分と相互作用を起こしたかどうか、というのが大事だ。
それは他者にも見えないし、自分にも見えないが、「時」がたてば自分にはわかるものだ。
 

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P45
「リズムがなければものごとは始まらない」
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P46
要するにそこでは、小説のボイスと読者のボイスが、呼応しているんだと思う。そこにはもちろんリズムがあり、響きがあり、呼応があります。
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P48
僕の中で、音楽というのは女性性と自然に結ぶ付いているのかもしれないですね。
とにかくぽくは子どもの頃から、ずっと音楽を熱心に聴き続けてきたし、七年くらいはジャズの店を経営していたから、楽器こそ演奏できないけど、リズムとか、ボイスとか、フリーインプロビゼーションの感覚は、わりに身体の芯にまで沁み付いているんです。だから音楽を演奏するみたいな感覚で文章を書いているところは、たしかにあると思う。耳で確かめながら文章を書いているというか。
それから「壁抜け」じゃないけど、本当に優れた演奏はあるところでふっと向こう側に「抜ける」んです。ジャズの長いアドリブでも、クラシック音楽でもある時点で、一種の天国的な領域に足を踏み入れる、はっという瞬間があるんですよね。
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やっぱり村上春樹の作品には、時間軸とリズムをつくるためにも、音楽が必要なんだなぁ、と思う。
音のリズムは、そこに流れをつくると同時に、意識のレイヤーを上下してスイングする力も持つから。

「スイングがなければ意味がない」!
→●「スイングがなければ意味がない」(It Don't Mean a thing)(May 1, 2017)

 
 
 

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P63
自分にできることを、できれば自分にしかできないことを真剣に追求したいというのが、僕にとっては大事な目安になります。
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P68
とにかく僕がこの本(『職業としての小説家』)で一番言いたかったのは、たとえば作家になるには、「自分が見定めた対象と全面的に関わり合うこと、そのコミットメントの深さが大切なんだ」
ということなんです。
そのコミットメントがどういうものなのかというのは、方向性も内容も、もちろん人によっていろいろ違うわけだけど、少なくとも「深さ」というのはどうしても必要ですね。
この深さがないと、そしてその深さを支えきれるだけの単力がないと、どこにもいけない。あとは運です。僕はたぶん運が良かったんだと思う。そうとしか考えられないから。
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春樹さんのこの発言には、大いに勇気をもらうなぁ。
自分の仕事にも通じる。

自分が探求するテーマに深く関与すること。
それは職業や立場を超えたものだ。
自分は『真善美』『いのち・たましい』『生と死』の問題に深くコミットしたい。

 

 

 

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P97
僕は思うんだけど、集合的無意識が取引されるのは、古代的なスペースにおいてなんです。
古代、あるいはもっと前かもしれない。僕が「古代的なスペース」ということでいつも思い浮かべるのは、洞窟の奥でストーリーテリングしている語り部です。
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P98
コンピュータの前に坐っていても、古代、あるいは原始時代の、そういった洞窟の中の集合的無意識みたいなものをじかにつながってると、僕は常に感じています。
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P99
そこで何より大事なのは語り口、小説でいえば文体です。信頼感とか、親しみとか、そういうものを生み出すのは、多くの場合語り口です。
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P101
とにかく「善き物語」と「悪しき物語」を峻別していくのは、多くの場合、時間の役目なんです。そして長い時間にしか峻別できないものもあります。
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春樹さんの作品は、普通の小説と言うより、神話に近いものを感じる。

神話が失われた現代だからこそ、現代なりの神話が必要とされ、それが村上春樹作品が国境や人種や宗教を超えて大きく支持される理由なのだろう。
人間の根源に触れているからこそ、こうして広く受け入れられているのだろうと思う。

 

 


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P159
人々が昔は無意識の中でだいたい全部処理していたことが、意識のもとで処理しなくてはいけなくなってくる。それにつれて言語体系も整ってくる。無意識の世界で、人々は何を拠り所に生きていたかというと、預言なんです。
古代的な社会には、巫女がいた。あるいは呪い師的な役割を持つ王様がいた。あの人たちは無意識の社会の中でさらに無意識を磨いて、避雷針が雷を受けるみたいに、いろんなメッセージを受け取ってそれを人々に伝える。

普通のそのへんの人々は自分の意識なんか必要なくて、そんなもの使い途すらなくて、ただ預言に従って無意識の世界で生きていればよかったわけ。その方が楽だったし。そしてメッセージを受け取れなくなった王様は殺されて、新しい王様が迎え入れられた。
ただ、社会が「意識」化するにしたがって、そういう巫女的な存在がだんだん力を失っていくんです。空気が変わって、うまく雷を受けられなくなる。
イデアというのはそれに近いものかもしれないと僕は思う。
本当に純粋なものって無意識の中にしかないんだけど、でも僕らはもうそれをうまく目にすることができないから、その代わりとして、意識に投影されたものを見るしかない。今のプラトンの話を聞いてると、そのことを思い出しました。
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(スピリチュアリストと小説家の違い)
一番の問題は、それが自発的であるかないかというということですよね。
(自発的というのは?)
例えば占いをする人がいますよね。そういう人たちがもともとある種の特別な能力を持っているというのは、たぶん間違いないところだと思うんです。
でもそれを職業にして、誰かが相談に来て答えなくちゃいけないときに、メッセージがまったく降りて来ないと商売にならないですよね。そこで何が問題かというと、それが自発的なものじゃなく
なる場合があるということですよね。
いつもいつも雷がうまく落ちてくるわけじゃないから。そしてそういうちょっとしたごまかしみたいなことをやっているうちに、それなりの「営業」のテクニックができてくる。
でも小説家というのは、締め切りさえ作らなければ、自発的に好きなように小説を書いたり書かなかったりできるわけです。そうでしょう?
自分で「雷受け」をコントロールすることができる。
そこが職業的な占い師、霊能者と、小説家との根本的な違いじゃないかと思うけど。

(なるほど。ある意味で嘘をつくようになり、いわゆる本当の霊性を帯びたものではなくなってくる。)
本人にもそれは分からないんじゃないかな。その辺の違いは微妙だから。
(見分けがつかななってくるのは危険かもしれない。)
すごく危険です。意識と無意識の境目がだんだん見えなくなってくる。小説家にも、人によっては同じようなことが起こっているのかもしれない。
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川上さんが「精神世界(スピリチュアル)」にある「物語」と、村上春樹の小説世界での「物語」の違いを聞いたことで、こういう話題が飛び出した。
これはすごくいい質問で、引き出した川上さんはすごい!と思った。

やはり、本人の誠実さや真摯さ、のような人間性が最後には必要とされるのだろうと、思った。

 

 

 

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P207
僕が『海辺のカフカ』を書いた時、十五歳の少年を書いたわけですが、その時に感じたのは、とにかくどこまで記憶をよみがえらせられるか、ということでしたね。記憶というのは努力して引っ張り出す、引きずり出すものです。穴の中から小さな動物を引っ張り出すみたいに。
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自分も子供のころの記憶や感性を思い出すことが習慣になっているから、なんだか嬉しい。

 

 


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P218
しれが生きた文章なんです。そこに反応が生まれる。動きが生まれる。
「つんぼじゃねえや」(ゴーリキー『どん底』)と「太った郵便配達人」(チャンドラーの比喩)、この二つが僕の文章の書き方のモデルになっている。そのコツさえつかんでいれば、けっこういい文章がかけます。たぶん。
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P224
言葉の響きって大事なんです。具体的なフィジカルな響き。たとえ声に出さなくても、目で見て響かなくちゃいけない。
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P232
英語で「Style is an index of the mind.」って言葉があるんです。これは「文体は心の窓である」って訳されています。
indexというのは「指標」のことですね。こういう言い回しがあるくらいだから、少なくとも英米では、スタイル(文体)というのはずいぶん大きな意味を持っています。 
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→小説の書き方についてこういう風な言う方をする春樹さんの発言は初めてだ。とても参考になる。やはり「文体」、その人固有の「声(ボイス)」というのは大事だ。誰の真似でもないものとして。

 

 

 

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P247
男性であれ女性であれ、その人物がどのように世界と関わっているかということ、つまりそのインターフェイス(接面)みたいなものが主に問題になってくるのであって、その存在自体の意味とか、重みとか、方向性とか、そういうことはむしろ描き過ぎないように意識しています。前にも言ったけど、自我的なものとはできるだけ関わらないようにしている。男性であれ女性であれ。
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P250
うん、女性の中には男性の持っているのとは違う機能が間違いなくあると、僕はいつも感じています。とても平凡な言い方だけど、僕らはそれを互いに補い合って生きている。そして時には役割や機能を交換することもある。
そういうのを自然なこととして捉えるかあるいは図式的であると捉えるか、公正であると捉えるか、それは人によって、場合によって違ってくると思うんです。お互いを補い合うというよりは、打ち消しあう部分だってあるかもしれない。
でも僕としては、ただそれを物語として捉えるしかない。ポジティブでもなく、ネガティブでもなく、そういう予見抜きで、自分の中にある物がやりにそのまま寄りそっていくしかない。僕は思想家でもなく、批評家でもなく、社会活動家でもなく、ただの一介の小説家に過ぎないですから。
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春樹さんの女性論は貴重だ。
女性というのを、かなり深い次元で捉えていると思う。
母なるもの、のような。シンボリックな女性性。


ゲーテが追求したのも、「母なるもの」だった。
 

 


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P259
ものごとをそのまま受け入れるというのは、ずいぶん体力のいることだし、そういう力を身につけことが大事なんじゃないかと。
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P259
例えば僕は、「この世界が神秘的で幻想的な世界だ」とは特に思ってはいません。超自然的な現象も特に信じないし、怪談とかオバケとかそういうこともとくに信じていない。占いみたいなことにもまるで興味がない。そういう非整合的な現象はあるいはどこかにあるかもしれないけど、またそれを決して否定するわけじゃないけど、僕とはあまり関係のないことだと思って生きています。とても散文的というか、非スピリチュアルな世界観です。
でも、僕にとっての物語をどこまでもリアリスティックに描いていこうとすると、結果的にそういう非合理的な世界を描いていくことになってしまいます。わけのわからないものがどんどん登場してきます。それが、「世界を神秘的、幻想的と考える」ことと「世界を神秘的、幻想的に描いてしまう」こととは別の話だという発言の意味です。それはわかりますよね。
その乖離というか、落差みたいなものの中に、自分の影が存在しているんじゃないか僕は思っています。
・・・
だったら、その乖離はどこからなぜ出てくるのか、それを知ることが、自分の影を見ることの手助けになるのではないかというふうに僕は思っています。 
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P261

(村上さんにとって、ご自身の影に触れる瞬間というのは、その物語世界を支えるすべてのセンテンスを詰めて詰めて極限まで詰める、その感覚であると。)
うん、要するにそういうことかもしれない。
その意味は分析の中にあるのではなく、行為そのものの中にあるんです。もちろん分析もある程度大事なんだろうけど、少なくともそれは僕の役目ではない。僕にとっては、行為総体が分析を含んでいなくてはならないんです。行為総体から切り離された分析は、根を引っこ抜かれた植物のようなものです。固定された分析には、必ずどこかに誤差が含まれています。
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春樹さんらしい発言だ。ニュートラルな立場をとり続ける、ということ自体に、胆力がいるし、強い精神性がいる。

どちらかに振れるのではなく、自分自身を保ち続けること。

極へ振れるということは、すでに自分自身の根っこから離れているだろう。誰かの思いに知らないうちに引っ張られ過ぎている。

 

自分自身のホームに戻るためにも、自分自身の根っこは深く強い必要がある。

自分の存在の土台は外から見えなくとも、深く深く、地球のコアと一致するほど深くありたいと、思う。

そうすれば、あらゆる物事を受け止めることのできる力が、自分にも育まれるだろう。

 

 


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P279
小説というのは呼吸だから、その呼吸のバランスさえ押さえておけばいいわけ。
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P317
この本の中で僕の使っている「イデア」は、いわゆる辞書的な意味合いのイデアとはだいぶ違うんです。イデアという言葉を上に放り投げたら、空中にあるいろんなものがピュッピュッピュッピュッってくっついてくるんだけど、そのくっつき方は、放り上げる人によって違ってきます。

僕の場合は、よりたくさんいろんなものがくっつきやすくなっている、もっと寛容、ジェネラスな意味でのイデアなわけ。

だから、辞書を引いて、「【イデア】観念」とか何とか書いてある意味とは違うもので、たしかに観念的なものではあるけれど、それはものすごい可動域を持ったものです。もしイデアの代わりに新しい言葉をつくったらつくったで、その可動域の意味合いが減衰されてしまう。

だからイデアという、どこにでもある既成の言葉を、更にいえばけっこ手垢のついた言葉を、ツールとして用いたかったんです。その方が逆に自由になれそうな気がしたから。

「メタファー」も同じことですね。本来の「暗喩」という意味でのメタファーというばかりではなく、もっと広い範囲の、磁力をもった何かトいうふうに考えてもらえるといい。そういう吸引力を備えた何かだと考えてもらえばいいわけです。

だから、その言葉もわりに僕にとっては自然に出てきたんですよね。例えば騎士団長は「私はイデアだ」と言うし、顔ながは「私はメタファーです」と言うけれど、その自己申告された身分みたいなのは、通常一般のイデアとメタファーとはおそらくかなり違っている。
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P319
「顔なが」本人の言によれば、メタファーというのは関連性の中でしか存在し得ないものだから。
それに比べてイデアは関連性と関係なく、一つの独立したものとしてどこにでも存在し得る。だからメタファーはイデアよりちょっと下の存在なのだと、「顔なが」はへりくだっています。

(二重メタファーというのはそれが文字通り二重になっているもの。)
うーん、何なのかは、僕もほとんど知らない(笑)。
よく知らないけど、かなり危険なもので、そんな簡単に扱ってはいけないものなんです。
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このあたりは「騎士団長殺し」を読んだ人にはわかると思う。
あまり辞書通りの意味ではなく、言葉が持つ響きや幅のようなものを、自分なりに咀嚼して受け取らないといけないんですね。

 

 


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P329
今のところ、僕がいちばん「悪」であると見なすのは、やはりシステムですね。

(村上さんの考える「悪」のイメージは、システム。)
もっとはっきり言えば、国家とか社会とか制度とか、そういうソリッドなシステムが避けがたく醸成し、抽出していく「悪」。
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P335
南京虐殺の問題を例にとると、否定する側には想定問答集みたいなものがあるわけです。こう言ったら、向こうはこう言い返す。こう言い返したら、今度はさらにまたこう言い返す。もうパターンがそっくり決まっているわけ。カンフー映画の組み手と同じで。
ところが、話を物語というパッケージに置き換えると、そういう想定問答集を超えることができるんです。向こうもなかなか有効には言い返せない。
物語に対しては、あるいはそれこそイデアやメタファーに対しては、何を言い返していいのかよくわからないから、遠巻きに吠えるしかない。
そういう意味で、物語というのは、こういう時代には逆にしぶとい力を持ってくるわけです。前近代の強みっていうか。もしそれが強く、「善き物語」であ るのならということだけど。

(前近代の強み。物語はそこを免れることができるということでしょうか。)
免れるというか、それを超えていかなければ物語の力はない。
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「物語の力」を信じるには、「物語」を受け取る必要があると思う。
昔話や神話が面白いのは、やはりそうした「物語」というパッケージの中に、あらゆる要素が、矛盾するものも含めてすべてこめられているからなのだと思う。
 

 

 

 

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P336
完全に囲われた場所に人を誘い込んで、その中で徹底的に洗脳して、そのあげくに不特定多数を殺させる。あそこで機能しているのは、最悪の形を取った邪悪な物語です。そういう回路が閉鎖された悪意の物語ではなく、もっと広い開放的な物語を作家はつくっていかなくちゃいけない。

囲い込んで何か搾り取るようなものじゃなくて、お互いを受け入れ、与えあうような状況を世界に向けて提示し、、提案して行かなくちゃいけない。僕は『アンダーグラウンド』の取材をしていて、とても強くそう思いました。肌身に浸みてそう思った。これはあまりにもひどすぎると。
(開かれた物語)
そういう物語の「善性」の根拠は何かというと、要するに歴史の重みなんです。もう何万年も前から人が洞窟の中で語り継いできた物語、神話、そういうものが僕らの中にいまだに継続してあるわけです。
それが「善き物語」の土壌であり、基盤であり、健全な重みになっている。
僕らはそれを信用しなくちゃいけない。それは長い長い時間を耐えうる強みと重みを持った物語です。それは遥か昔の洞窟の中にまでしっかり繋がっています。
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その通りだ・・・・。

深く感じ入る。


・・・
なかなかのVolumeでしたが一気に読んで、3回読み直した。
すごくいい対話集でした。

春樹ファンも、村上春樹の良さが分からない人も、この本はいい導入になってくれると思います。


でも、
こういうことはなしにしても、本当に春樹作品はすべて面白いので、是非食わず嫌いせず読んでほしい~。短編集もすべて秀逸ですから!!
 

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