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死の体験

平等院と『あの世』(April 7, 2017)を書いていてふと思ったこと。

人は、何らかの形で「死の体験」をするとき、外的には「完全なる終わり」という事態として体験する。もう終わったのだ、二度と帰って来ないのだ、と。そのとき、内的世界では苦しみや悲しみや喪失感も伴う。

ただ、そうした外的な「完全な終わり」を補うものとして、内的には「永遠性の感情」が時をおいて沸き起こってくる。

「一回性」は「永遠性」とペアになり存在する。

それらすべてのプロセスを全体的に体験することが、死を体験したと言えるのかもしれない。

永遠性の感情は、自分のはるか深い場所から何かを助けるように音もなくやってくる。

死にはいろんな意味がある。

外で起きる死もそうだが、内的世界でも死は起きる。人は成長の過程でいろんな喪失や死を体験するだろう。

子どもが大人になるときも、子ども性は無意識に死を体験するし、それは漫画家の楳図かずお先生がずっと探究しているテーマだ。 何かを喪失することは生きている限り避けられない。

死の体験は、未消化であっても、いづれ時と運命とが再体験を促すように再度訪れ直す仕組みになっているようだ。それが生を豊かにするために欠くことのできないものだから。

むしろ、死の喪失こそが、深い魂の病の引き金にもなりうることも経験する。

「一回性」と「永遠性」

「死」の体験は、そうして「生」をさらに深く豊かなものにする。

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