誰もが通った第一歩へと

我が子が軽井沢風越学園に通い始めた。


これまで3年間、生き抜いてこれただけで天晴れだ。(今年で4歳になる)

古来から「3歳までは神のうち」という言葉があるのは、弱い子どもが3歳になる前に死んでしまうことが多かった時代の哀しみの表現でもあると思う。死の領域に接近している子どもの存在とかみさまへの思いを重ね合わせることで、わたしたちの祖先は共同体の絆を保ってきたのだろう。

これまで3年間生きてきて、風越学園での体験は、はじめての本格的な集団行動になる。

今までは父・母・子という最小ユニットで行動していた。


自分は父として、無償の愛をただただ与え続けることだけに徹した。自分は、子どもの愛想もいらないし、知性も理性も感性も求めない。相手に求めるのではなく、自分自身こそが無償の愛を与え続ける黒子の存在に徹する。

「自分」というかけがえのない存在の巨大な謎に挑むため、ただいるだけで肯定される、ただ存在しているだけでいいのだ、という命の根本哲学を生命の核に強く深く強く刻み込むために。

親ができることは、本当はそうした単純なことだけだ。

自分という存在の根本が揺らぐと、知識はただの処世術になるし、愛想も笑顔もすべて人工社会を生き抜く処世術のカタログに堕してしまう。

親子という最小ユニットの閉鎖された関係性の中で、安全な場であることを意識した。子どもが目いっぱい好きなように行動する安全な巣として。とにかく生命を爆発させて3年間を過ごしてもらいたかった。聖なる次元で生命を爆発させる遊びに熱中し、生命をまるごと体現して生きてほしい、と。

そしていま、3歳生きた彼は、次のステップとして社会の縮図の第一歩へと踏み出している。

敵か味方か、何ものか分からない他者の場へと放り出され、新しい場や関係性の中で、他者との距離感を学び始める。

どこまでが相手に踏み込んでいい距離なのか、人との人との距離感を、とにかく学ぶ。

他者の存在により、ドーナツの穴のように自分という存在はジリジリとあぶりだされてくる。

風越学園にいる見知らぬ(が優しい!)大人の渦の中へダイブし、子どもの渦の中にダイブし、自分の尊厳を見失わないようにしながら、ただただ無目的に遊び続ける。自由な宇宙を体現するような子どもの在り方を見て、改めて感動し、内省する。

ああ、こうして人は社会の中へ入り、楽しいこともあれば時に傷つくこともあり、だけれども一人では生きていけないからこそ、お互いに肩を寄せ合い、人と人との距離をまなびながら、愛の本質を学んでいくのだな、と。

愛の本質は距離だ。

嫌いになったら好きになる距離まで離れればいい。

相手を嫌いになっているのは、距離が近すぎただけなんだ。

人は、そうして個人のプライベートゾーンという見えざる場を固有にせっせと育んでいて、お互いの場を尊重し合うことで、わたしたちは新しい個も創造できるし、新しい場も創造できる。

子どもだけではなく大人も、そうした一歩を誰もが踏み出した過去がある。それが個人の歴史だ。だから、へこたれず、逞しく生きて、それでいて利己的にならず常に利他の心も忘れず、社会の本質を学び続けてほしい。

幼稚園生活が始まって2週間ほどたち、子どもが泣いたり叫んだりしながら他者や社会の縮図を学び、真っ黒になり泥だらけになり小さな生命爆発が巨大な生命爆発へと成長している姿を見て、一人の対等な人間として、思うこと。