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軽井沢 夏日和 想うこと

  • 執筆者の写真: inaba
    inaba
  • 2021年7月21日
  • 読了時間: 3分

軽井沢 夏日和 


散歩(最近は子どもの自転車の練習)で感じること



植物の形は、形を見てるだけで飽きない。 形や構図そのものを、ずっと見てられる。



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植物と虫との分かちがたい関係。



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植物の対称的な形と、雲や光の不定形な形とが錯綜しているこの世界に、深い浪漫をかんじる。

人間は、定形と不定形、どちらの形なのかなぁ




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緑の中に無限の奥行きを感じる。



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自然界で展開される、ふとした植物と虫との関係を見ていても、人間界の混迷などどこ吹く風だ。ただ当たり前のように生きている。

こうした単純なる共生社会から、人間社会は本当に複雑怪奇な社会になった。



自然は徹底的に中立だが、人間は必ず偏るものだ。

自然は誰にとっても厳しく優しいが、人間の厳しさや優しさは必ず偏る。

このことはわきまえとして知っておく必要がある。



だからこそ、場が中立で公正になることを考えるには、人間界の理屈だけではなくて、自然界の原理を入れ込んで、場をつくる必要がある。


場の中心をどちらかに偏った人間にするのではなくて、「永遠に中立である自然界」にする知恵が必要だ。

そうすると、人間の中で選ぶなら、基準は「自然界に近い人間」でなくてはいけない。人間社会に過剰適応した人物ではなく。


そうした人たちは、海や山、畑や田んぼ、厳しい自然界の中を探してみれば、いくらでも見つかる。


そういう眼差しや視点がどんどん失われているから、人はどんどん一定の方向へ偏り、偏った人たちでつくる人間界全体もどんどん一定の方向へ偏り、人間社会全体のバランスが崩れていても、その前提すらわからなくなってしまう。最初から、基準点がずれているのだから。



自然界が悠久なる過去から展開し続ける完全なる中立(ニュートラル)。もちろん、その現実は極めて厳しいものであり、同時に優しく美しいものでもある。

そうした自然界を中心に据えながら、人間界ともそれなりに付き合っていくくらいの距離感がちょうどいい。そうすれば、今の時代の混迷が客観的にみえてくるから。




平和や平等を理念に掲げた祝祭。

この巨大な鏡の前に立つとき、その鏡の中には自分の人生のパノラマも映るだろうが、鏡に映る自分自身の背後には自然界も無限遠まで映し出されていることも忘れてはいけないと思う。



本当に平和や平等な社会を目指すならば、「自然界に近い人間」の知恵を取り込まない限り、いつまでも歪んだバランスが人間社会の中で両極に振れ続けていくだけではないかと思う。




「自然界に近い人間」は、この今も、自然や宇宙と一対一で対峙しながら暮らしているだろう。

人工的な社会で生きる自分も、そうした中立な自然界への眼差しを忘れないようにして、「天然自然」の人間という存在と、しっかり向き合いたいと思う。

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