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積み木と石積み

子どもと外で遊ぶ。


大きな木の下に土を見つけ、石を見つけ、なにやら積み上げ始める。

じっと見守る。飽きることがなく続ける。


1時間くらいはその遊びに自分も付き合っただろうか。

もちろん、自分は見守るだけだ。ちょっかいは出さず、距離をとって見守る。



ふと思った。


伝統的なおもちゃの積み木は、人が加工した木を積んで遊ぶ。確かに子どもは熱中する。積み木遊びは、人が決めた規格のものをきちんと積みあげて規定通りに納めていくことを間接的に学んでいる。

それと対照的に、外で石を積み上げる遊びは、自然界にあるバラバラな石、姿かたちや質感やサイズもまるで違う石。多様な石をなんとかひとつのかたちに積み上げようとするが、何度も何度も石は崩れ続ける。そこに答えはない。作業は不可能なように思えてしまう。意味や目的も問い直してしまう。ただ、石積みの作業を何度も何度もあきらめず繰り返し続ける行為自体が、規格化できない自然界の存在物、それは多様な人も含めて、どのようにしてひとつのまとまりへと収れんできるのか、そのプロセスを学んでいるではないかな、と。



積み木遊びは、確かに官僚的な仕事には抜群だ。大学入試でも仕事の出世でも、規定路線のある枠組内の作業を、規定内にきちんと納まるような事務的なスキルや処世術こそが求められるから。

それに対して、石積みは、もっと多様な自然界に対しての生き方が求められる。バラバラでひとまとまりにならない世界を、自分が関与することでなんとかあるバランスのある形にできないかと、永遠に終わらない自然界との遊びを学んでいるのかもしれない。


きっと、この社会で生き抜くにはどちらのスキルも必要だろう。


子どもの真剣なまなざしを見ていると、そこにたたずむ自分という存在、そして場を見守る木の存在とを感じる。見守り、見守られる関係性はそうして入れ子状になり、宇宙の果てまで続く。もちろん、素粒子のミクロの世界へも。


子どもは子どもなりに真剣にこの世界の手触りを感じ、どうやってこの世界を生き抜いていくのかを学び続けているのだろう。


そんな思いが自分の中から自然に浮き上がってくるためには(あくまでも外からではなく内奥から)、自分にも1時間ほどの見守る時間が必要だったのだと思うと、面白いものだ。














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