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さくらももこ『ひとりずもう』 自分というよくわからない存在

9月23日
読了時間: 5分

さくらももこの自伝漫画『ひとりずもう』が、素晴らしかった。

9歳の子どもも熱中している。

時代を超えた普遍性とは何なのだろうと考えつつ読み返している。



自伝漫画『ひとりずもう』(小説版もある)は、『ちびまる子ちゃん』とよく似た世界から出発しながら、違う場所へと向かっていく作品だった。




『ちびまる子ちゃん』では、さくらももこは人間を少し離れたところから眺めている。

人間はそんなに立派ではなく、誰もが少しずつ変で、矛盾している。

人間の駄目さを観察しているうちに、それが可笑しさへと変わり、最後には不思議な愛おしさへと変わる。

『ちびまる子ちゃん』の笑いには、そうした深い人間肯定がある。


ところが、『ひとりずもう』では、その鋭い観察の眼差しが、次第に自分自身へと向けられていく。

子どもの頃は、世界のほうがおかしかった。

しかし思春期になると、分からなくなるのは世界ではなく、自分なのだ。


中学生になり、身体が変わる。容姿が気になるし異性を意識するようになる。恋もするし、他人からどう見えているのかが気になり始める。昨日まで何とも思わなかったことが、突然恥ずかしくなったりする。


思春期とは、そうして「自分の中に他人の眼差しが生まれる時期」なのだろう。


『ひとりずもう』には、自分自身を持て余す居心地の悪さが実によく描かれている。

そして、さくらももこはそれを「青春」という美しい言葉で包まない。


ここで描かれているのは、後世から見た「国民的漫画家・さくらももこの誕生物語」ではなく、未来をまだ何も知らない一人の少女の物語だ。


私たちは成功した人の過去を見るとそこに一本の線を引いてしまう。才能があったんだろう、努力したから夢がかなったんだろう、と。

しかし、実際の人生はそんなに整然としていない。

その瞬間を生きている本人には、自分がどこへ向かっているのか分からない。

さくらももこも、未来の「さくらももこ」を知らなかった。漫画家になれる保証などない。けれど、不安や迷いや怠けの中で、それでも漫画を描くことだけは手放さなかった。


人は確信があるから進むのではない。むしろ、自分を疑いながらもおのずから身体が向かってしまう方向へ小さく進んでいく。

夢とは、最初から明確な目標として存在するものではなく、「何度離れようとしてもなぜか自分が戻ってきてしまう場所」なのかもしれない。


そう考えると、『ひとりずもう』という題名も違った形で見えてくる。

そもそも、ひとりずもうとは自分一人で勝手に力を入れ格闘していること。思春期とは、まさにそういうものだろう。


思春期には、他人がどう思っているか分からないのに嫌われたのではないかと悩む。まだ起きてもいない未来を想像して不安になる。自分には才能がないと思いながら、同時に特別な人間なのではないかとも思う。

自信と劣等感。希望と不安。自意識と羞恥。

大人になりたい気持ちと、子どものままでいたい気持ち。

振り子のように触れながら、感情は複雑に入り混じる。


戦っている相手は、いつも自分自身なのだ。


だから、『ちびまる子ちゃん』と『ひとりずもう』を並べてみると、さくらももこという作家の面白さが、さらによく見えてくる。

『ちびまる子ちゃん』が「人間っておかしい」という発見の物語だったとすれば、

『ひとりずもう』は、「そのおかしな人間が、自分だった」という発見の物語でもあるのだ。


前者では世界を観察することで笑いが生まれる。

後者では自分自身を観察することで、笑いの中に切なさが生まれる。

しかし、その二つを貫いているものは同じだ。


さくらももこは、人間を美化しない。人間の不完全さを切り捨てない。

むしろ、

「人間って、こういうものだよね」

と、少し離れたところから眺めて笑ってみせる。存在をまるごと肯定しながら笑い飛ばす。


それは他者に対してだけではなく、自分自身に対してもそうだ。

ここに、さくらももこのユーモアの本質がある。


ユーモアとは、単に人を笑わせる技術ではない。自分の苦しさや恥ずかしさから、ほんの少し距離を取るための知性でもある。


「ああ、私はまたこんなことで悩んでいる」と、自分自身を登場人物のように眺めてみることで、苦しみが消えるわけではないが、そこに「風が通る」ようになる。

さくらももこの笑いには、そうした「生きるための距離」がある。


それこそが『ひとりずもう』の思春期描写を、単なる懐かしい青春漫画以上のものにしている。

自分の中にある矛盾した複数の自分がいることを知りながら受け入れて生きていくこと。

あらゆる矛盾を抱えながら、さくらももこは「さくらももこ」へ成長する。


だから『ひとりずもう』は、成功した漫画家の自伝というよりも、

「自分が何者なのか分からない一人の少女が、分からないまま自分になっていく物語」

だと思う。


私たちもまた、ずっと「ひとりずもう」をしている。

自分に期待し、自分に失望し、自分を励まし、自分を疑う。

それでも、どこかへ向かって生きている。


『ひとりずもう』を読んで胸を打たれるのは、そこに若き日のさくらももこを見るからだけではない。

その不器用で、可笑しくて、切実な少女の姿の中に、かつての自分自身を見つけてしまうからなのだと思う。



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