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『時をかける少女』 (1983、大林宣彦監督)レビュー

英訳もされて世界に配信されるCulture ReviewサイトのRealTokyoに、映画レビューを書きました。 自宅にいる時間が長い昨今(と言っても、医療関係者は勤務形態はほとんど変わらないんですが・・)、家で観られる映画(AmazonプライムやNetflix、TSUTAYA DISCASなど・・・)の中で、映画レビューを、とのことで、Amazonプライムの人が無料で観れる「時をかける少女」(1983、大林宣彦監督)のレビューを書きました。(レビューは同時に英訳も出ています) というのも。 大林宣彦監督が亡くなれた2020年4月10日は、遺作となった『海辺の映画館—キネマの玉手箱』の封切り予定日でもあり、新型コロナウイルスの感染で、大林監督の訃報が適切に報道されていないような気がしたのです。




 

●AT HOME RealTokyo 『時をかける少女』 大林宣彦監督 Written by 稲葉俊郎|2020.5.11 「ファンタジー」という通路を介して、わたしたちに語りかけてくるもの ●The Girl Who Leapt Through Time Directed by Nobuhiko Obayashi Written by Toshiro Inaba|2020.5.11 『What the path of fantasy is telling us』 日本語英語 こういう時代だからこそ、わたしたちの「魂」の声に耳を傾ける必要があるかと思います。わたしたちはどう生きたいのか?どのような世界に行きたいのか?と。魂の扉をあけるために、ファンタジーという鍵は必要なのです。






 


『時をかける少女』 大林宣彦監督 Written by 稲葉俊郎|2020.5.11 「ファンタジー」という通路を介して、わたしたちに語りかけてくるもの 大林宣彦監督は、最後の作品を完成させた直後に亡くなられた。命日の2020年4月10日は、遺作『海辺の映画館—キネマの玉手箱』の封切り予定日でもあった。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、3月31日に公開延期が決まり、その直後に亡くなられたのだった。映画の神に生命を捧げるように生きた大林監督が、人生をかけてこの世界へ伝えようとしていたのは何だったのか。この混乱の時代の中、何か受け取る必要があるのではないか、そうしたことを漠然と考えていた。 『時をかける少女』(1983年)を改めて見なおした。先入観を排して、まっさらな目でこの映画作品と対峙した。高校1年生のひとりの女性が「時をかけ」戻って来る世界を描いた作品である。彼女はラベンダーの香りを嗅いだ直後に時間が歪んだ世界へと迷い込む。過ぎたはずの一日がもう一度繰り返され、昨日は再び今日となる。過去と現在とが入り混じるように、死と生も入り混じっている。そうした奇妙な時の中で、彼女はある出会いと体験を経て、もう一度もとの日常へと戻ることを強く決意する。ふと気づくと、もう時間は奇妙な流れ方をしない。以前と同じ世界に戻ったようだ。ただ、別の世界を経て戻った彼女には、自分しか知らない「魂」の世界がある。その世界が孵化するように大切に胸に抱き、生きていく一人の女性となる。 思春期は、「子ども」なりになんとかつくりあげた人間の全体像が、根本から覆されてしまう時期である。未知の「大人」の世界へ足を踏み入れるために必要ではあるが、心の奥底、深い内界で起きる出来事でもあり、わけのわからない体験でもある。子どもの語彙では明確に言語化できず、いろいろな問題行動として表に出てしまうこともある。子どもの世界を忘れた大人の多くは、そうした子どものサインをうまく受け止めることができない。子どもは、こうした「魂」 の世界に開かれた存在であり、子どもの眼こそが「魂」の世界を見ているとも言える。「子ども」から「大人」になることで、わたしたちの内なる眼は「魂」の世界に閉じられていく。では、大人は「魂」の世界を再び見ることはできないのだろうか。わたしたちは、「ファンタジー」を語ることで、なんとかその一端を伝えることができる。それは映画にもなり、芸術にもなり、音楽にもなる。別の言い方をすれば、魂は「ファンタジー」という通路を介して、わたしたちに語りかけてくるのだ(それは思秋期と言える時期なのかもしれない)。 『時をかける少女』は、こうして「ファンタジー」という通路を介して、時を越えてわたしたちの思春期のドアをノックする。眠りについた小動物を起こすように。あなたの「魂」の世界は、いまどこに眼をむけているのか、と。 大林監督の演出方法は独特なものだったらしい。役者は、脚本通りに指令を受ける機械のように演技する仕方を封じられた。「役を演じる」のではなく、「役を生きる」ことを求め、監督は「フィロソフィー(哲学)」を提示するだけだ、として、演技の解答を提示しなかった。現場は常に変化する。その変化に合わせて考えなさい、と呼びかけ、脚本自体も変化した。馴れない役者や現場はかなり困惑したとのことだ。ただ、大林監督の作品からは原田知世さんしかり、浅野忠信さんを含め、多くの名優たちが育っている。 大林監督が言いたかったことは、「映画」という現場での創造行為を全員が参加して考えろ、ということなのだと思う。俳優はもちろん、カメラマンも音声さんもアシスタントも、映画を創る一員として全員が悩み考え、心動かすことを求めたのだ。 大林監督がいまの時代に遺し、伝えたかったこともそういうことではないだろうか。つまり、社会という場も、医療現場も、「フィロソフィー」をこそ大切に共有して、この世に生きる人たち全員が創造の参加者として共に悩み、考えることを呼びかけていたのではないだろうか。経済が止まる、失業、医療崩壊……と、いろいろな問題は起こる。だからこそ、考えろ、と。答えはひとつではない。だからこそ、考え続けろ、と。そして、そこで守るべきフィロソフィーは「いのち」ではないだろうか。 大林監督は、若い時に黒澤明監督から言われたことがずっと心に残っていたようだ。それは、戦争を体験したものには、その悲惨さや無意味さをきちんと伝えていく役割がある、ということだ。大林監督は、そのことについては映画として正面から向き合わなかったと感じ、晩年の『花筐/HANAGATAMI』(2017年)、『海辺の映画館—キネマの玉手箱』(2020年)を作ったと発言されていた。 確かに『時をかける少女』(1983年)は、一見すると青春もの、SFもの、ファンタジーもの、と言える。ただ、改めて見なおしてみると、死者への鎮魂の映画でもあるのではないのか、とも感じた。作品は沈黙と共に雄弁に語る。大林監督の「魂」は、混迷の時代に生きるわたしたちに対して、「ファンタジー」という通路を介して「時をかけて」語りかけ続けている。受け取るかどうか——それは、わたしたち受け手次第だ。



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