3.11 善意を持って祈る力


3月11日を迎える度に思い出す。


2011年のときに感じた体の感覚。

不安やおそれ、絶望や孤独、世界の終わりや破滅・・・いろんなことが頭をよぎった。

そして、頭以上に、体や心が記憶しているかのように、ブルブルッと震えたりして、記憶しているようだ。


セシウム汚染で飲料水が飲めなくなるのか、放射能で窓を開けて風にあたることもできなくなるのか、人間はこの地球自体を汚染し、そんな人間に住む権利がないと、地球を追い出されのだろうか・・・・などと。


今でも、そうした思いは、心の奥底にザワザワとした動きと共に残っていて、あのときに動いた心の層は、いまでも動き続けている。


原発事故で住む土地を追われた多くの人がいる。居場所を奪われた。

それでも、いまだに原発は稼働され続けようとする動きを見ていると、社会の病は深い、と改めて思う。社会のシステムは、深い病にかかっているのではないか、と。

「止めることができない」ということ自体が、システムや仕組みそのものに潜む深い病だ。アクセルを踏んだが最後、ブレーキがうまく作動しない。そうした背後のメカニズムに対して、目を向けて最善の対策を考え続けていく必要がある。人間が生み出したものは、人間にしか解除できないのだから。



悪のエッセンスは、水の流れのようなもので、太古から人類の中を通り抜けてきた。小さい悪は個人を通過し、小さい悪事を人に働かせる。ただ、些細で小さい悪であっても多くの悪が、水が合流するように一箇所に集まると、悪は肥大化し強大化する。


善と悪とは、複雑に拮抗し合っている。

悪は悪なりの善意や正義を訴え続けて勢力を増やすため、善と悪とは、ゆっくり立ち止まって考えてみないと違いは分からない。ただ、落ち着いて眺めてみると、善と悪とは、明らかに違う顔付きをしている。



・・・・・

こうした時代の中で、さて自分に何ができるのか、と思う。

何もできない、と思いながらも、いろいろとできることがあるとも思う。振り子のように動き続け、止まることはない。


無力や絶望、という感覚に襲われることがある。

頭の世界で対応困難と判断されると、そうした感情がシグナルのように送られるらしい。

おそらく、それは結果を急ぐことから来る感覚だ。

頭はとにかく速く急ぐことに特徴がある。

そもそも、そうした早く速く・・・・という時間感覚こそが、無力や絶望を生んでいるだけではないのだろうか。


何十億年という生命の流れがある。そして、数百万年単位での、人類の流れがある。

こうした長期的な流れの中にいることを深く感じれば、無力や絶望、だけではない、別の感情も立ち上がってくる。


大したことがない一歩ですら、歩む向きが間違っていなければ、出会うべき人と、必ず出会う。

そして、出会いことが絶望を超える力になる。それは人工知能にも予想できないこと。出会いこそが大きな力だ。


生きていることは、すでに命がつながってきた証でもあり、生き残った人たちの物語の総和でもある。数えきれないほどの出会いの連鎖の果てに、物語はつながっている。


戦争や飢餓や飢饉など、あらゆる苦難は、全ての生きている人に関係がある出来事だ。

なぜなら、現に今、生きている人は、そうした過酷な環境をなんとか生き残った子孫そのものでもあるから。かれらの期待に背かないように。



祈り、思いを馳せる。

そうした精神的な営みが、違う世界へと心の回路を開く儀式的な行為でもある。


一滴の水が寄せ集まり、水や海の全体性をつくりながら、あらゆる空間を巡る。


空間を巡る水滴のような一人一人の小さな思いは、悪意ではなく、善意であるべきだと思う。

それは、支え合ってこそ成立する「いのち」が、本来的に本質的に求めていることだから。