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14歳

「中二病」という言葉が、やや人を小ばかにした言葉で使われる、ということを最近まで知らなかった。

「中二病」とは、<中学2年生頃の思春期に見られる背伸びしがちな言動を自虐する語>のことを言うらしい。(最初に命名した伊集院光さんはそうした否定的な意味合いではなかったようだが・・)

おそらく、「大人なのに、いまだに子どもみたいな夢みたいなことを悩んでるんじゃないよ」という意味合いが込められているのだと思うのだが、ここには大きな勘違いがある。

というのも、中二、つまり、14歳、この時期は思春期とされる時期で、人間の人格を形作る最終仕上げのような、人格の土台となるもっとも大事な時期なのだ。

この時期を馬鹿にしている時点で、自分の過去を否定しているようなもので、かなしい。 この時期をどう通過したかが、一生残響音を鳴らし続ける。宇宙が誕生したビッグバンの残響音がいまだに響き続けているように。

どんな人間でも、人生で2度、質的変容を起こす成長の時期というものがある。

質的変容とは、サナギが蝶になるような、まったく次元の違う変化のことだ(仏教での悟りも、同じような質的変化を起こす意識体験のことを指す)。

それは、自我の誕生(2歳頃)と、思春期(14歳頃)だ。

この時期に、わたしたちは一カメ(外を見る視点)と二カメ(外から自分が見られるときの視点。だから、外からの評価がとにかく気になり、とにかく異性が気になる)の基本型をつくる。

村上春樹さんの作品をまったく認めない人たちは、おそらくこの時期を馬鹿にしている人たちだろうなぁ、とよく思う。

というのも、春樹作品には、こうした自我の誕生から思春期の時期に、何らかの形で「損なわれた」ひとたちが、いかに生きていくか、その魂の生きざまのようなことを現代の神話のように描き続けているからだ。

 

話は変わるが、 自分には「記憶を思い出す」という趣味がある。 暇さえあれば、いつでも「記憶」を思い出している。 特に、あらゆることに関する「はじめての記憶」に関して。これは、2歳頃の自我の誕生時期だから、とにかく思い出すことが難しく、だからこそ飽きることがない。

というのも。 「記憶」には、なんとか現実を乗り切ろうとして、自分の都合でねつ造した嘘が多分に含まれている。同時に、自分のコアとなる大切な体験も、鉱脈のようにそこに含まれているからだ。そこは人間の魂の場所だ。

果たして、自分の記憶を思い出してくれる人なんて、自分以外にいるだろうか?では、自分が取り組むしかないではないか。

思春期には、多くの人が「なにものでもない」存在だった。だからこそ「なにものかになりたい」と思ったはずだ。 それは、ある意味では人生の中で検証していくべき「仮説」のようなものでもあり、自分が仮に立てた仮説としての「なにものか」に向けて人生の帆を進めていく。

だけれど、人生はそんなにうまくいかないものだ。 だからこそ、自分の人生には多くの嘘と真実とがモザイク状に織りなされて行く。 ある人は嘘が真実を超えていくことさえあるのだ。 その人生は、果たしてどういう人生になるだろう。

 

思春期とは、誰にとっても過酷なもの。 多くの人が忘れているからこそ、鼻で笑ってバカにする。

自分は職業上、思春期の子たちと話すことも多い。 悩みを聞くたびに、なんと一生懸命にこの人生を生きているのだろうか、と思わず涙が出ることすらある。

大人は、システムをうまく利用するコツをつかんでしまい、要領よく生きるコツをどこかで学び始める。

大人は、人生の劇薬が原型のまま保たれている人生そのものの形を、思春期の時代からこそ多くを学ぶ必要がある。

村上春樹さん、新海誠監督・・・の作品がとにかく素晴らしいのは、その時期の大切さを、とっても深く深く共感して大切にしているからだろうと、思う。

漫画家の楳図かずおさんには「14歳」という長編がある。

彼は、「こども」が「おとな」へ切り替わってしまう時計の針のカチカチ音が、自分の命の中から「実際に」聞こえたらしい。それは「14歳」だった。そのことが天才漫画家の一生のモチーフとなったのだ。

14歳のころに聞いていた音楽を聴いていて、ふと思い出したこと。

備忘録として。

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