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舞台「海辺のカフカ」@赤坂ACTシアター

May 22, 2019

舞台「海辺のカフカ」@赤坂ACTシアター、初日に足を運んだ。


やはりというか、とってもとってもよかった!!震えた。完全に春樹世界に没入した。

物語の重層的な世界を、演劇的な仕掛けですべて表現しつくしていた。

演劇でしか果たしえない「通路」が、生まれていた。

 

舞台『海辺のカフカ』
原作:村上春樹 
脚本:フランク・ギャラティ
演出:蜷川幸雄

 

 

 

自分は、2012年5月3日に彩の国さいたま芸術劇場で行われた初演も見に行った。

そのときも、大雨が降っていて、劇場から出ると雨はあがっており、今回も同じ状況だった。

→(なつかしい当時の旧ブログ「吾」:舞台版「海辺のカフカ」(2012-05-04)

 

 

 

雨が降る。雨に濡れる。

雨が止まるのを待つ。

雨が上がる。

 

 

海辺のカフカの冒頭では、こういう印象的な台詞がある。

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村上春樹『海辺のカフカ』
「ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。
君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。
君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。
何度でも何度でも。まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰り返される。

なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係ななにかじゃないからだ。
そいつはつまり、君自身のことなんだ。
君の中にあるなにかなんだ。
だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。

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向こうからやってくる避けられないもの。巻き込まれてしまうもの。
そこには歴史的なものも個人的なものも含め、多くのモノが付着した網のようなもので。

網が持つ特殊な磁場に引っ張られないように、自分が見据える方向をしっかり見極め、自分が行くべき方向へと向かっていかなければいけない。

 

 

蝶にだけしか分からない「通路」や「道」というものがあり、それは「蝶道」と呼ばれる。
きっと、人間にも人間の道、動物にも動物の道、植物にも植物の道があり、猫にも猫の道があり、それぞれの人にしか分からない個人の道もあるのだろう。

多数の道があると、道と道とが交わる交差点のような「場所」もある。


その「場所」は人が出会う場所で、引き寄せる地場のようなものがあるのだろう。

場所は固く閉ざされていることもあれば、偶然に開かれていることもあり、夢もそうした「場所」の一つだ。あらゆる物語の祖型に、こうした「場所」を巡る物語がある。

 

 

 

人生のあらゆることは「仮説」だ。
自分はこう思う。相手はこう思う。仮説を作り出してこの世界を生きる。
互いの「仮説」が、凸と凹のようにうまくかみ合うと、その仮説は互いのために機能し始める。それは止まった「時」を動かし始める鍵のようなもの。

 

大切な場所には、たいてい鍵がかけられている。場所が荒らされないように。
鍵は自分でかけた場合もあれば、だれかがかけている場合もある。

自分でかけた鍵も、そのことすら忘れてしまっている場合も多い。

鍵はどこに行った?

 

海辺のカフカの中で、印象的なセリフがある。

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大島さん「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。
イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities - まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところには責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」
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人に与えられた能力としての想像する力。


想像すること。

その延長に夢見もある。

普段と違う意識の状態でも、僕らは常に想像している。その一部が夢として立ち現れる。


想像し、その中で倫理的にも葛藤する。

どちらの道をとるべきか、その道は二つしかないのか、それとも第三の道があるのか。

思考は無意識に往復運動をして、その末に一定の価値判断を下す。

これはしてはいけない、これはしていいだろう。

きっとこういうことだろう、こういうことではないだろう。

こうしよう、やはりしないでおこう・・・などと。


果たして、自分がそこで対話しているのは、どこの誰なのだろう?

判断の調停者は、いったい誰なのだろう。

 

頭の中の空想や想像は、頭の中だけで閉じられた輪のように完結していて、外界へは何の影響も与えないように思える。外には一滴も漏れ出ていないように思える。

ただ、想像によって与えられた心のエネルギーは、駆動しはじめると出口を求める。体のどこかを出口として探し出し、行動として結実化し、心は出口としての水路を求める。

 

果たして、想像は本当に一滴すらも漏れ出ていないのだろうか。

 

 

「僕らの責任は想像力の中から始まる。In dreams begin the responsibilities

 

想像力は、文学や音楽、芸術の母体でもある。

産み出した母体の場所から、すでに物事は動き出している。カオスやノイズ、チューニングから、すでに音楽は始まっている。

自分の人生にあてはめて考えてみると、大きな示唆を与えるものだ。

 

春樹作品で効果的に出てくる「性」の場面も、「想像力」からすでに「性」の責任ははじまるのだ、と考えてみると、いろいろな場面が腑に落ちる。

 

 

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僕(田村カフカ)「記憶にないことには責任を持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。

 

でも彼らは言う、「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して君はその責任を負わなくてはならない。結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍びこんできたものだから」
ヒットラーの巨大に歪んだ夢の中に否応もなく巻き込まれていった、アドルフ・アイヒマン中佐と同じように。」
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佐伯さんもナカタさんも、暴力で「損なわれてしまったもの」を受けとめ、生き続け、生き残ってきた人たちだ。2人とも半分しか影がない。

「佐伯さん」が苗字しか提示されないのも、そうして半身で生きてきたことの象徴なのかもしれない。プラトン『饗宴』内の、劇作家アリストパネスによる「愛の起源と三つの愛について」という演説で語られた、男男、男女、女女で生きていた人間が、神々によって男と女へと分割され、その原型を僕らが追い求め続けるように。

 

 

ナカタさんには「現在」しかなくて「過去(記憶)」を失い、

佐伯さんには「過去(記憶)」しかなくて「現在」を失っている。

だからこそ、互いは求め、出会う必要があった。生と死の境界の場所で。特殊な通路を介して出会う。

 

 

ナカタさんが特別な理由もなくジョニー・ウォーカーを殺害したように(それは戦争と同じことだ。戦争では互いが互いを殺し合うが、そこに個人的な理由など存在するのだろうか)、犯罪や暴力はどこかで途切れているものではなく、全ての事象と地続きでつながっている。不思議に呼応しあっている。

 

物語で、ヒトラーやアイヒマンの行動が描写されるように、日本兵二人の亡霊が入り口の石を守っているように、戦争はまだ続いているのだ。別の形を変え続けて。

 

そのことを真摯に考え続け、受け止め続け、物語という総合的な世界で提示し続けているのが村上春樹さんで、自分はそうしたことにも深く影響を受け続けている。

 

 

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大島さん「紫式部の生きていた時代にあっては、生き霊というのは怪奇現象であると同時に、すぐそこにあるごく自然な心の状態だった。そのふたつの種類の闇をべつべつに分けて考えることは、当時の人々にはたぶん不可能だっただろうね。
しかし、僕らのいる世界はそうではなくなってしまった。外の世界の闇はすっかり消えてしまったけれど、心の闇はほとんどそのまま残っている。僕らが自我や意識と名づけているものは、氷山と同じように、その大部分を闇の領域に沈めている。そのような乖離がある場合には僕らの中に深い矛盾と混乱を生み出すことになる」
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物語は、自分の心のなかに起こることと外に起こることとが融合して、ひとつの話になっている(昔の人はそれを区別せずに語っていた)。

何か思いがけないことが起こったときに「とても怖かった」という言い方をするところを、昔は「お化けが出てきた」という言い方をした。
これは外的な事実というよりも、自分の心のなかのことを語っている。
それは無意識の世界に深く関係してくる。

 

心の中に起きたこと、実際に外で起きたこと。それはある意味で一体のものであって、そこを分ける必要はなかった。
現代という時代は、色々なものを分けて、分離して、バラバラにしていったから、そうした心の現実と外の現実とを明確に分けてしまった。

 

自然を解体し、外の現実を知り尽くしたように思えても、僕らは寄って立つべき自分自身の心の中、想像力の源、イメージの力、夢の源泉、、、そうしたものを軽視しすぎている。知ろうとしていない。

だからこそ、文学や芸術、演劇は大きな力を持っている。

 

 

春樹さんは、現代の神話を物語として紡ぎ出している。
もちろん、神話の知には危険性もあって、高い倫理性が要求されるものだ。

 

ある人を支える物語は、不思議な普遍性を持つ。
人の話を聴いている時もそう思う。
辛抱強く、希望を失わず、共に苦しんでいると、その人を支える存在が、物語の形を持って生じてくるものだ。

 

自分はそうしたことに希望を持つ者の一人だ。
春樹さんもそうだろう。演出をされた蜷川幸雄さんもその一人だっただろう。

 

 

こうして素晴らしい舞台を、観れたことを光栄に思う。

原作も、演出も脚本も、役者も舞台装置も音楽も。
すべてが圧倒的な全体性をもって、観客の心を優しく包み込んでいた。

 

劇場という「場所」は、小説世界と深く出会うための「場所」となる。

特定の「場所」でしか出会えないのは、海辺のカフカと同じ。異なる世界が出会うためにはその場所が最も大事なのだ。

 

演劇では役者の動きや声、光や影、舞台・・・・あらゆる要素が互いに響きあうことで一つの大きなボイスとなり、小説とは全く異なる通路によって、物語世界を手渡してくれる。

 

体験は、体内の奥深くで微熱のように発熱し続け、その人の一生において、内側から守る生命の火として生命の一部として捧げられるのだろう。

 

すべてが素晴らしい舞台だった!

 

 

 

舞台 海辺のカフカ
公演スケジュール 2019年5月21日(火)~2019年6月9日(日)
https://www.tbs.co.jp/act/event/kafka2019/

キャスト・スタッフ
◆スタッフ
原作 村上春樹
脚本 フランク・ギャラティ
演出 蜷川幸雄
ほか

◆キャスト
佐伯 ‘カフカ’が高松で通う甲村記念図書館の管理をしている女性。…………… 寺島しのぶ
大島 ‘カフカ’が高松で通う甲村記念図書館の司書。…………………………… 岡本健一
カフカ 15歳の少年。父親に与えられた「ある呪い」から逃れるため家出をする。… 古畑新之 
カラス ‘カフカ’の分身。‘カフカ’にアドバイスを与える謎の人物。……………………柿澤勇人 
さくら ‘カフカ’が高松へ行く道中で出会う美容師の女性。…………………………木南晴夏 
カーネル・サンダーズ ‘星野’と高松で出会うポン引き。……………………… 鳥山昌克 
星野 ‘ナカタ’と道中をともにするトラック運転手。………………………………… 高橋 努 
ナカタ 猫探しを得意とする男性。幼少のころ「ある事件」に遭遇し、すべての
記憶と読み書きの能力を失ったが、代わりに猫と話ができるようになった。………… 木場勝己

新川將人、妹尾正文、マメ山田、塚本幸男、堀文明、羽子田洋子、多岐川装子、土井ケイト、周本絵梨香、手打隆盛、玲央バルトナー

 

春樹さんの作品には本当に素敵な一節がキラ星のごとくたくさんあって、定期的に反芻してます。

 

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『海辺のカフカ』より
ジョニーウォーカー
「それも決まりなんだ。目を閉じちゃいけない。目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。
目を閉じて何かが消えるわけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている。
私たちはそういう世界に住んでいるんだよ、ナカタさん。
しっかりと目を開けるんだ。目を閉じるのは弱虫のやることだ。現実から目をそらすのは卑怯もののやることだ。
君が目を閉じ、耳をふさいでいるあいだにも時は刻まれているんだ。コツコツと」 
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大島さん
「田村カフカくん、僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。
それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。
そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。
僕らはそんなふうに生きているんだ」 
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大島さん
「「僕らはみんな、いろんな大事なものを失いつづける」、ベルが鳴りやんだあとで彼が言う。
大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。
でも、僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。
きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。
そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。」
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女の子
「『純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ。』
 アンリ・ベルグソンの『物質と記憶』、読んだことないの?」
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女の子
「ヘーゲルは<自己認識>というものを規定し、
人間はただ単に自己と客体を離ればなれに認識するだけでなく、
媒介としての客体に自己を投射することによって、
行為的に自己をより深く理解できることができると考えたの。
それが自己意識。」
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ナカタさん
「空っぽということは、空き家と同じなのです。
鍵がかかっていない空き家と同じなのです。
入るつもりになれば、なんだって誰だって、自由にそこに入ってこられます。
ナカタはそれがとても恐ろしいのです。」
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大島さん
「世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいないんだ。
求めていると思いこんでいるだけだ。すべては幻想だ。
もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。
覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ。」 
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大島さん
「ジャン・ジャック・ルソーは人類が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。
まさに慧眼というべきだね。
そのとおり、すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。」
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佐伯さん
「あなたに私のことを覚えていてほしいの。
あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない。」
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図書館で偶然に発見。

こんなCDがあったこと自体知らなかった。

 

カフカを生んだチェコの誇るジャズ・ピアニスト、エミル・ヴィクリッキーが村上春樹さんの小説にインスパイアされ、創り上げたモダン・ジャズ・アルバム。
プラハにちなんだ春樹さんの書き下ろし「プラハの街、その淡い闇」も収録。

音楽もとっても素晴らしい!(1Q84でのヤナーチェクがご縁みたい)

 

 

Emil Viklicky Trio (エミール・ヴィクリッキー・トリオ)「海辺のカフカ」(2012年)

 

 Kafka On The Shore

-TRIBUTE TO HARUKI MURAKAMI-
Emil Viklicky Trio

 

Emil Viklicky piano
Josef Fetcho bass 
Laco Tropp drums
Jitka Hosprova viola (10) 
Jana Sykorova mezzo soprano (12)

 

Afterdark 《E.Viklicky》
Dolphine Dance 《H.Hancock》
Eleanor Rigby 《Lennon, McCartney》
Peacocks 《J.Rowles》
Solitude 《D.Ellington》
Windmils Of Your Mind 《M.Legrand》
1Q84 《E.Viklicky》
Double Moon 《E.Viklicky》
The Boy Named Crow 《E.Viklicky》
Kafka On The Shore 《E.Viklicky》
Entering Stone 《E.Viklicky》
Miss Saeki Theme 《E.Viklicky》
Windows 《C.Corea》

 

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