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映画「帰ってきたヒトラー」

映画「帰ってきたヒトラー」を見た。(監督/脚本: デヴィッド・ヴェンド) Amazonプライムで見れるもので。当直中に。

すごく含みのある映画だった。

コメディのようでありながら、その喜劇の中に強い毒をはらむ映画。まさにワーグナーの音楽のように。

ヒトラーとまったく同じ格好、同じしゃべり方、同じ発想の人間が、とつぜん現代に現れる。 周囲は、彼をヒトラーそっくりの芸人だと思い込み、物まね芸人という扱いでテレビに出させていく。 ヒトラー似の人物は、本気なのか、笑いなのか・・・。 視聴者も戸惑いつつも、その強い説得力と扇動力に感化を受け初めてしまい、、、、という映画。

原作の本は2012年に出ていて、ドイツでベストセラーとなった。その後、2015年に映画化されたものだ。 第2次世界大戦から70年以上経ち、ようやくこうして客観視して冷静に過去に向き合えるようになったからこそ、作られた映画。 時代が時代なら逮捕されそうな映画作品でもある。

時代が違えば、価値観も異なる。そうしたことを改めて感じ、不思議な気持ちにもなる。

それぞれの人の中にある残虐性や暴力性、差別意識、特権意識、優越意識・・・。 いろいろな時代の条件が重なった瞬間に、心の暗部や暗闇を拡大して増幅させたものがヒトラーという存在で、それは時代が不安定になり、人が不安の雲に覆われると、人は目標を明確に明示してくれる強い指導者を求めるものだ。

今この瞬間にも、わたしたちは無意識に何かを選択してはいないだろうか、そうした再考を強く促す映画だった気がする。

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映画内の台詞 「わたしは何度でも蘇る。みなの心の中にあるからだ」 ------------------------

エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』の中にこう言う話がある。

彼女は三つ子の長女として生まれたが、下の二人の妹たちと違い、両親から疎外されて育った。そのため、自分の存在意義が分からず、アイデンティティーが確立できなかった。なぜ自分が生きている必要があるのだろう、と。

自分の生き方に悩む19歳のキューブラー・ロスは、ポーランドのマイダネク、というナチス・ドイツの強制収容所があった場所を訪れる。その中では、死を目の前にした子供たちが壁に残した絵を目にする。なぜか、蝶の絵が多かった。(後に、生まれ変わりのイメージとしての蝶であるとロスは解釈する)

そして、強制収容所生活を過ごしながら生き延びた少女と出会う。その少女は、もし生き延びることができたらヒトラーを訴え、ナチスの罪を告発することを決意していた。ただ、実際には彼女はしなかった。なぜなら、そうして罪を告発してナチスに関わった人たちを死刑にすることは、自分自身もヒトラーと同じことをしているのではないかと思ったからだ。

少女は、ロスにこう言う。 「誰の心のなかにもヒットラーがいる。そう思わない?」と。

この体験は、自暴自棄になっていた若きキューブラー・ロスを大きく変える体験となり、彼女は医学の道に進むことを決意した、と。

何かこうしたエピソードを思い出した。

 

映画の中では、フィクションが現実に侵食し、現実もフィクションへと接近していく。 現実とフィクションとが、異なる世界であるため位相が交わらない時、わたしたちは虚構を虚構として楽しむことができる。 ただ、色々な条件が重なり、フィクションと現実という異なる世界が重なりあいまじりあってしまうと、わたしたちは何が現実か、虚構なのか、その根拠があやふやとなり、いる場所を見失ってしまう。夢なのか、現実なのか、と。

そうした現実と虚構というようなものも改めて考え直される素晴らしい映画だった。

 

【ストーリー】 ヒトラーの姿をした男が突如街に現れたら? 「不謹慎なコスプレ男?」顔が似ていれば、「モノマネ芸人?」。リストラされたテレビマンに発掘され、復帰の足がかりにテレビ出演させられた男は、 長い沈黙の後、とんでもない演説を繰り出し、視聴者のドギモを抜く。 自信に満ちた演説は、かつてのヒトラーを模した完成度の高い芸と認識され、過激な毒演は、ユーモラスで真理をついていると話題になり、大衆の心を掴み始める。 しかし、皆気づいていなかった。彼がタイムスリップしてきた<ホンモノ>で、70年前と全く変わっていないことを。そして、天才扇動者である彼にとって、現代のネット社会は願ってもない環境であることを―。

〇映画『帰ってきたヒトラー』予告編

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