「なおる」「よくなる」「生きる」
医者になり立てのころは、ひとを「なおす」「よくする」ことだけにフォーカスが当たっていた。 その後、ひとが「なおる」「よくなる」という状態へと焦点がうつった。 微妙な言葉のニュアンスの変化だが、その中に主体が変わったことが含まれている。
さらに色んな事例を経験していると、「なおる」「よくなる」も、そう簡単な話ではないことがわかってくる。
今では、「なおる」「よくなる」を越えて、「生きる」ということに、むしろ焦点があたってきている。 いかにして「生きる」プロセスを共に歩めるか(登山で言えば、未踏の処女峰を登る同行者の心境に近い)、ということを思うようになり、いまに至る。
「相手を治す」という思いが強すぎる時は、自分の解釈や考えを押し付け過ぎていないか、相手の本来的な生き方をゆがませてないか、自律的な可能性や発展性を押し殺してないか・・、見直す必要がある。
「相手が自分の力で治る」という思いが強すぎる時は、相手の自主性に甘えて、自分の責任や能力という点で厳しさに欠けるところがないか・・、見直す必要がある。
「相手が自分自身の力で治った」と表面では言いながら「自分が治した」という思いが強いときには、言葉と思いがバラバラになっている。自分が自我肥大(エゴインフレーション)を起こしていないか・・・、見直す必要がある。
医療においてプロである誇りを失っていないならば、相手を見ながらも、同時に自分を照らす鏡として自分自身も重ね合わせてみることが、大切なことだ。
あらゆることを我が事として光のように重ね合わせてみる。そのことが思いやりや、Compassionにも通じる。
ふと、思ったこと。