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バトンを渡された側に立っている

北朝鮮の弾道ミサイル報道で、改めて思うこと。

1938年にドイツの物理学者オットー・ハーンが原子核分裂を発見し、人類は核爆弾を手にした。 「力」や「暴力」で支配しようとする国にとって、最強の武器を手に入れた。 素手より武器。武器より銃。銃より爆弾や細菌兵器。もっと強いものを、もっと強いものを・・・・・・と。

もちろん、究極の武器である核へと至る道は同時に自滅する可能性もある(しかも地球丸ごと)諸刃の剣でもあった。

戦争は、局地戦から少しずつすべての国を巻き込むようになり、第2次世界大戦はそのピークを迎えた。

アメリカは日本の広島と長崎に二発の核爆弾を落とした。人類の潜在意識に究極の恐怖を刷り込んだ。 すべてを消滅させ無に帰するとんでもない爆弾。 人は赤ん坊から大人になるが、その過程で、なぜこうした手段を思いついてしまうのだろう。そして実行してしまうのだろう。

それ以降も、核による支配は続いた。

みんなが核を捨てようと言い合うものの、だましあいを続けてきた人たちは、そう簡単に相手を信じることはできない。科学自体も「疑う」ことから始まってきたし、「信じる」ことは「だまされること」と思っている人たちにとって、「信じる」ことはイノセンスで無知な行為だと思っているからだ。信じあう社会ではなく、疑い合う社会は少しずつ作られてきた。

 

今、世界に核兵器を持つ国は9カ国あるらしい。 アメリカとロシアが約1万発! 桁が違う。 イギリス、フランス、中国は200から300発。 インドとパキスタン(とイスラエル?)は100発弱。 そして北朝鮮は数発。

北朝鮮は、おそらくこう言いたい。 「アメリカさん、ロシアさん、あなたたちの国の一部の人は核を持ち、暴力と恐怖で世界を支配しようとしている。それなら、弱いわたしたちも作りますよ。当然でしょう。それがだめと言うのなら、あなたたちも核をすべて捨ててくださいよ。そうしたら、私たちも核は持ちませんよ」と。

もちろん、アメリカもロシアも知らんぷり。そんなの知ったこっちゃない、と。 でも、北朝鮮が核を持つのは許さない。 パワーバランスが崩れてしまうし、何をしでかすかわからない国だ、と。 無知は、恐れを無限に増幅させる。

北朝鮮は、挑発したい。 韓国やロシアは近いし、挑発すると本当に戦争になる可能性がある。 アメリカも同じだ。

どの国も、戦争をしたい、と思っている人たちは潜在的に大勢いる。

実際、日本の戦後復興も、朝鮮戦争(1950年-1953年:休戦中)の戦争特需の影響は大きかった。 物が不足すると、物を持っている人が有利で、何でも飛ぶように売れていくからだ。

北朝鮮は考える。 日本はおそらく戦争をしない。

それはなめられていると取る人もいるかもしれないが、別の言い方をすると信頼されているとも言える。

日本と言う国は二回も核を落とされた被害者だ。そして、福島では原発が地震と津波の被害を受けて、未だにメルトダウンした原発の状況は解決していない。

日本はもともと平和や調和を尊ぶ国だ。 だから、ある程度挑発しても、日本は戦争はしないだろう、と。

だから、日本への挑発をする。 繰り返すが、それはなめられていると取る人もいるかもしれないが、別の言い方をすると信頼されているとも言える。

そういうことを冷静に考えると、やはり日本という国は、世界のバランスの中で調停をする役回りにあるのだと、思う。

1945年に第二次世界大戦は終わった。 ただ、まだ戦争や核によって問題を解決したい、自分たちが有利な立場に立ちたい、と思っているひとたちは大勢残っている。 そういう人たちは、恐れや恐怖を利用して、次の世代へ似た教育をし続け、似た人たちを再生産し続けるだろう。

 

人類がすこしずつ進化して成長しているのならば、生きている人たちが、死者の思いを受け取り、次の未来をつくる未来のひとたちへこの地球や国土を渡していく役割があるのならば、日本は新しい平和の道を先導することを託されている、と思う。

辛い目にあった人。 当事者だからこそ、その思いは強く深いはずだ。 広島と長崎の原爆。福島の原発。 この問題はまだ終わっていないのだ。

だからこそ、対話の道を捨ててはいけない。 そして、核や死者への鎮魂や、あらゆる文化による解決の手段を模索し続けなければいけない。 力や暴力で安易に解決することを繰り返してはいけない。 そのために、人類はあらゆる叡智を積み重ねてきたはずだ。 そういうことは学校の教科書で山のように習った。

 

自分は医療者として、体の本質に至ることを提唱している。

それは、体や生命が多様性と調和の場であり、競争原理ではなく協力原理を大切にしている場であることを身に染みて骨の髄まで感じれば、力による安易な解決法に頼らず、対話を続けていく第3の道を選べるはずだ、と信じているからだ。

身体や心を深く学ぶことは、だからこそ平和運動でもあると、自分は思う。 それは2歳のころの自分が感じていたことでもあり、今の自分がより強く感じていることでもある。

物事の本質へと至る道は、すべての世界に開かれている。 どんな世界でも、深く深く本質を追求していけば、生命の本質に、人類の本質に、あらゆる方向から至ることができると思う。

北朝鮮の報道を見ると、日本は新しい未来の社会を先導する役割があるのだと、自分は思う。 力や暴力や恐怖が中心にある社会ではなく、 多様性や調和、受容や包容、寛容さ、優しさ、共感、愛、慈悲、美、、、そうしたものが中心にある社会へ、と。

そして、それは人間の体のパーツのようなもので、右手と左手が争うのではなく、右足と左足が逆方向に動くのではなく、それぞれの役割を担う人たちが、協力して力をあわせてこそ、成し遂げることができることなのだと思う。「分断する」ためではなく、「つなぐ」ために、インターネットなどの電子空間は生み出されたのだと、思う。

 

赤ちゃんや子供、若い人たち、そしてまだ生まれてきていない未来の人たち。 未来を支えるひとたちは、すべて自分の過去の姿でもある。わたしたちは、すべてそういう時代を経てきた。若者、こども、赤ん坊、そしてこの世に存在する前。潜在的な可能性のみの時代。

そういう人達へのつなぎ役として「今」がある。

過去と未来は「今」があることでバラバラにならない。

自分もいづれ死者となり、バトンを渡す側になるのだから。 いま生きているということは、望もうとも望まずとも、バトンを渡された側に立っているのだから。

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