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体の表現

August 18, 2017

身体でも心でも、「病」として表現するだけでも力がいる。

だから、「病」として表現できるだけで、十分それに対応できるだけの力もある、と考えた方がいい。

 

問題が絡まった糸のように錯綜している場合や、そもそもの力が枯渇し不足している場合は、「病」として発症させることもできない。
一緒にいるだけでこちらが訳も分からずどっと疲れるのは、そういう場合だ。こちら側の身体を表現の場としているから、こちらが疲れる。

 

 

体では病として表現していながらも、心と体がつながっていないとき、体が孤立化していることが問題だ。

そこに何らかのイメージを介在させることで、心と体がつながる。二つの世界にコミュニケーションやダイアログが起きる。

 

 

 

 

だから、芸術やイメージは医療において大事なのだ。体や心の表層に惑わされず深層を見ていると、そういうプロセスが分かる。

 

 

芸術やイメージは無意識の領域に多くが属している。

 

自分の無意識までもが相手にコミットしていくとき、その開かれた態度は相手を開く。

すると、通常と異なるドアが開き、異なる回路が作動し、今まで枯れていた水路に水が通り、全体の構造そのものが劇的に変化することがある。経験論として。

 

 

だから、ただあの人がここにいるだけで、という違いが起こる。それは「無意識への責任」が関与している。

 

「無意識の責任」とは、意識的な責任感を越えたものをコミット(関与)させながら、その全体性に責任を持っていく、という態度のことだ。

 

 

 

体を知ること、心を知ること。その深層と表層との関係性を知ること。

 

『Science』は、ラテン語の『Scientia』から来ている。
「知」のこと。「よりよく知る」という単純なこと。大事なのは論文でも方法論でもなくて。生き方やライフスタイルや哲学に近いもの。

 

 

科学(Science)でほんとに大事なのは、存在のリアリティーにどういう風にして接近するか、ということだと思う。科学畑ではない他の世界にいる人の方が自然にそうして生きている気がする。

 

 

自分の存在をかけてものを知ろうとする、というのは大変だからこそ大事なことなのだ。

 

 

人の夢の話を聞くときがある。
それは相手の全体性を知ろうと思うからだ。身体や心を知ろうとすることと同じ営みとして。

 

人間の無意識内に存在する自己治癒の働きを、夢を通じて知ろうとする試みとして、聞いている。
 イメージこそが、無意識から意識へのコミュニケーションのメディア(媒体)なのだから。

 

 

 

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