生と死のリンク
昨日は8月15日。
死者を悼むお盆の日と、終戦日とが近いのは偶然なのだろうか。
日本の神話では、イザナギ・イザナミから国土や神々が生まれる。 妻イザナミは命をかけていろいろな神々を生むが、最後は火の神カグツチを産んで、代わりに絶命する。 夫イザナギは妻イザナミを死なせた火の神カグツチを切る。(が、そこからもまた神神が生まれる。)
イザナギは死んだ妻イザナミを求めて、死の世界である黄泉の国を訪れる。生と死とは世界が異なるにも関わらず。生から死への壁は低い。
イザナギは妻イザナミから『見るな』という約束をする。しかし、夫イザナギはその約束を破る。
すると、そこには死者であるイザナミの腐乱した状態を見る。「死の現実」を体験するのだ。
イザナギがイザナミの「死の現実(リアリティー)」を見た時、古事記では「見畏む(みかしこむ)」という表現が出てくる。 生と死、有限と無限など、世界が分離される時、人間は片側に属し、他の側(聖なる側)へは容易に入る事ができない。 こうした手の届かない場所にいる存在として、日本人は「カミ」や「ホトケ」という言葉をあてた。
人間は死すべきものとしての自覚を持ちつつ、同時に永遠のものに対して「畏む(かしこむ)」という、畏れをもった態度を持たなければならない。生は有限の世界であり、死は無限の世界である。
自分は今、生という有限の世界を生きている。
「見畏む」という表現の中に、そうした思いが込められている。
妻イザナミの『見るな』という約束を破った夫イザナギを妻イザナミは、死の世界へ連れて行くべく、死と生の間にある坂(=黄泉比良坂)を逆行するように追いかける。
青木繁『黄泉比良坂』(1903年)
死の世界の住人であるイザナミは、 「あなたの国の人を1000人殺す」と言う。
それに対し、生の世界の住人である夫イザナミは 「それなら1500人を産む産屋を建てる」 と答え、生と死という異なる世界の解決を見る。
けじめとして、その境界には岩が布置される。
日本の神話では、死という現実に対して、死を超えた生を創造することで、死と生の矛盾を解決させたのだ。
生の中に死を包含させるように。決して無視せず、見ないふりをセず、死が生を支えていることに敬意を表し。
破壊や消滅や死は必ず起きる。 ただ、だからこそ、それを上回る創造行為や誕生や生により、いのちは伝わっていくと、日本の集合的無意識である日本神話は語っているのだと、思う。
すべて創造行為とは、いのちの営みに深く関与している神事のようなものだ。
「最後(いやはて)に其の妹(いも)伊邪那美命(いざなみのみこと)、身自(みづか)ら追ひ来たりき。
爾(すなは)ち千引石(ちびきいは)を其の黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各対(おのおのむか)ひ立ちて事戸(ことど)を度(わた)す時、伊邪那美命、言(まを)したまはく、
「愛(うつく)しき我が汝夫(なせ)の命、如此(かく)為(し)たまはば、汝(みまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺さな」
とまをしたまひき。
爾(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、詔(の)りたまはく、
「愛(うつく)しき我が汝妹(なにも)の命、汝(いまし)、然(しか)為(せ)ば、吾(あれ)一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)立てむ」とのりたまひき。
是を以て一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちひほたり)なも生まるる。」