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コトバとカラダ

病気と闘う、という表現をした時、必ずその人の表情が変わる。 特に、眉間に皺が寄り、闘争的な顔貌になる。 心のスクリーンを体が担当しているようだ。

きっと、頭の中のイメージでは、テレビや映像で見た「戦闘相手」が映写されているのだろう。その脳内イメージが透けて見える。

言葉の力というのは大きい。 言葉は、イメージを検索してひっかけてくるような役割をしている。イメージの世界から釣り針でひっかけてくるように。

だから、自分は体を戦争の比喩(メタファー)ではなく、別の形で体をとらえる言葉を提案している。

体は戦いの場ではなく(免疫システムは時にそういう役割も担うのだが、それは緊急避難的なものだ)、体を調和的で共生的に暮らす場として。

赤ん坊でこの世界に生まれてきたとき、まさか自分の体自体を敵や戦場だと思って生まれてくる人はいない。

言葉は、だからこそ丁寧に使わないといけない。

言葉は、自分の脳の中の勢いや流動性を動かし、脳の場そのものを規定してしまうから。

インターネットという公共の場は、ある意味でそうした言葉の練習場だとも思う。

言葉を見ていると、その人の脳の状態が透けてみる。

無限に近い組み合わせの中でその人が選んだ言葉の中に、その人の歴史が含まれている。

そこに喜びも苦悩もすべてが包含されているようだ。

言葉と意識の本質がわかってくると、言葉がいかに呪術的で威力あるものなのか、と思いしるし、生命の歴史の中で、ヒトという種にコトバが発生してきた瞬間にも敬意の念が湧いてくる。

ヒトは、生命業界の中でも、そうしてコトバのマジカルな力と共に共進化してきた稀有な存在なのだと思う。

だからこそ、コトバを慎重に適切に心して使いたい。

自分のコトバは、自分自身が一番聞いているのだから。

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