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岡本太郎「迷宮の人生」

March 30, 2017

岡本太郎さんの「迷宮の人生」アートン (2004年)を再読。

 

 

 

Taroさんの文章は本当に素晴らしい。かっこいい。
「人生」というプロセスを、謎に満ちた答えもない永遠の迷宮としてとらえた文章だ。

岡本太郎は「表現」を狭く限定しなかった人だ。
だから、文章や文体による表現も、絵画と同じように徹底的に深めている。こだわっている。
それでいて瞬間的に直感的に言葉をつむいでいく。

アクションペインティングのようで、それでいて構造が計算されているような自由な文章を書く。

 

 

最後のあとがきには、実質的な妻であり、秘書であり、よき友であり、恋人であり、よき弟子であり、よき導師であるような・・・・岡本敏子さんによる「太郎論」もあり、それも素晴らしかった。

 

 

岡本敏子さんはこう表現する。

「岡本太郎は、最初から岡本太郎だった訳ではないのよ。
 彼は岡本太郎になったの。」

と。

 

 

「岡本太郎」というフレームワークを常に脱皮しながら、それでいて自分自身の核となる部分へと接近し続けながら誠実に生きた人なのだろう。

 

 

 

自分も「稲葉俊郎」になるために生きたいと、太郎さんや敏子さんの言葉のリズムを浴びながら改めて思った。

 

 

以前、認知症の患者さんの自宅に往診した時、玄関でこういわれた。
「あなたは、誰ですか?」


その問いを正面から受けた瞬間、戸惑って言葉が出なかった体験を、ふと思い出すことがある。
「自分は誰なんだ。」
と。

 

 


岡本太郎『迷宮の人生』

「なぜわれわれは「迷宮」というテーマに惹かれるのか。
それはまさにわれわれが現実に、迷宮のなかに生き、耐えて、さまざまな壁にぶつかりながら、さまよっているからだ。

事実、人生、運命について見通せるものは何もない。
瞬間瞬間、進む道に疑問を不安を抱き、夢と現実がぶつかりあっている。
強烈に生きようと決意すればするほど、迷宮は渦を巻くのだ。
それは日常の痛切な実感ではないか。

迷宮の中で期待と絶望にふり回されるのは、人間だけだ。
動物は本能的に迷路を潜り抜けてしまうが、人間は意識によって、たとえ何でもないところでも出口を失い、迷う。
夢と絶望、それはいくつもいくつも重なりあって、瞬間瞬間にひらけ、また閉じ込められる。
解決したと思ったとたんに新しい混迷のなかに閉ざされる。
矛盾のなかを、手さぐりで進んでいる。
まさしくそれが人生だ。」

 


「迷宮のなかでは不思議な時間・空間が迫り、動揺する。
そこに恐怖感、絶望感、希望がからみあう。
時空の無限のひろがり。
それはまた、強烈な幻想だからこそ、暗くそして明るい。
この動と静。相反し対立する渦。
まさにラビリンスは人間生活の運命そのものだ。」

 

 


「自分の心のうちにある迷宮のなかを、熱情をもって彷徨ってゆけばよいのだ。
嬉しさと不安感をまじえながら夢幻の世界を創造し、ひらいてゆく。」

 

 

 


「ケルトの「組紐文」も「縄文」にひどく似ている。
無限にからみあい、回転してゆく。
私はかつて、『美の呪力』でこのように書いた。

 

『組紐文は(キリスト的とは)まさに正反対の世界観だ。
中心というものがない。無限にのび、くぐり抜けてひろがる。
世界を流動の相で捉える人々の造形だ。
たった一人、一つのものが中心だとか力を持つなどという、こだわった権力意志ではない。
自分たちを超えた運命がいつでもすれ違いながら流れて行く。
それがどこに行くか、はじまりもなければ終わりもない。
とすれば、あらゆるポイントがはじまりであり終わりである。
だからどんな部分も、絶対感をもって宇宙に対する。価値でもなければ無価値でもない。
無限に時空のなかに、みえてゆくエネルギーであり、意志だ。』

 

 

 

 

これがラビリンスだと私は直感する。
それは運命感であり、宇宙観なのである。

無条件で人間の夢をひらいた軌跡だから、そこには始まり、終わり、決められた形というものではなく、始まりは終わり、終わりは始まり、無限だ。
つまり永遠の循環。

縄文やケルトの組紐文を見てそこに私が迷宮を幻想するのは、
形が、いわゆる迷宮のイメージに似ているというのではなくて、
そこに表出される世界観、運命観が迷宮のなかに生きているからだ。

そして私は自分の運命がそのまま、そこに反映して、命がそこにからみあうような、自分と一体の思いがする。
キリキリ回っている、くぐり抜けくぐり抜けしていく線、その生き方そのもの。」

 

 



「迷宮の出口を出るということは、つまりは人生を退いてしまうのだ。
それは死ぬことではない。
死でもなく、生でもない、真の生命感を失った無意味の存在になってしまうことだ。
死と生がからみあっているところに生命の情感、迷宮の神秘があるのだ。

人間はみな、それぞれラビリンスを創造しているのだ。
数十億の人間がこの世にいるならば、数十億のラビリンスがある。
あらためて言う。人生・即・迷宮と。」

 

 

 

 

 


(岡本敏子さんの後書きがまた、愛に溢れていて素晴らしい)


岡本敏子『迷宮をゆく太郎』
「岡本太郎が好きで勇気をもらっている人たちは、
「岡本太郎」という個性が最初から天性のものとしてあったように思っているようだ。
そしてその強さに憧れたり、とてもあんな風にはなれないと悩んだりしている。

私はそういう人に言いたい。
「岡本太郎は、最初から岡本太郎だった訳ではないのよ。彼は岡本太郎になったの。」

自分で決意して、覚悟を決めて、そうなり、それを貫いたのだ。
転生強い人とか、聡明な人、才能のある人、そんなのは何でもない。
そういうものはいつでもぐらぐらするし、破れる。

才能のある人は才能によってつまずくし、聡明な人は自分の馬鹿に気がつかない。
だが岡本太郎は最初から、まったく捨て身、自分を投げ出したところから出発した。
だから彼は恐れない。


強くてこんなことをやっていたのなら、ただの豪傑だ。おめでたい愚者だ。
だが彼はそうではない。

痛がりやで、繊細極まる神経の持ち主で、しかもいろんなことが見えてしまうたちだ。
それがこれを貫きとおしたということが凄い。
だから力なのだ。人に迫るのだ。」

 

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