top of page

舞台芸術集団 地下空港『サファリング・ザ・ナイト』

伊藤靖朗(いとうやすろう)さんが脚本・演出されている舞台芸術集団 地下空港の『サファリング・ザ・ナイト』を観に行きましたが、本当に素晴らしかった!伊藤さん天才!移動参加型演劇って初めて体感した。

 

AI(人工知能)が進化した時代に人類がどういう関係性を結ぶのか、という現代的な主題。分断と統合など。数十年先の近未来が舞台になっている。

お客さんは入り口から二つの別グループに分けられる。二つのグループは途中までは違う場所で違う舞台を見ることになる。異なった視点から。

その後、二つの劇場を出て、巨大な倉庫の空間を実際に歩きながら、演劇空間を身体感覚で実感していく。

実際の倉庫を使って歩きながら体感する演劇空間は、倉庫が元々人間の気配がない空間だからか、無機質化していく近未来を体感するのに申し分のない空間だった。

すみだパークスタジオの場所は、昭和の匂いと、突如出現した巨大なスカイツリーの機械的構造物とで、ちぐはぐに時相がずれた空間になっている。演劇を支える場として最適だった。

AIや機械に判断の主導権を譲る時代になると、暮らしの中心も機械やAIになるだろう。

機械に最適な環境としては、水や植物や太陽から隔離せざるを得ず、温度管理も一定にする必要がある。そうすると、近未来には地下倉庫のような無機質な空間が多くの場所を占めていくのかもしれない。勿論、そうした環境にも人間は適応していくだろう。未来は選択次第だ。いいとか悪いではなく。選択した結果の集まりが、起こりうる未来として顕在化する。

移動グループも少人数に分かれるため、それぞれのグループは全員が違った体験をする。だからこそ、何度もこの劇に足を運びたくなると思う。

物語は、視点の違いで全く違うものとなる。それは日常の現実世界で日々体験していることだが、忘れやすいことだ。演劇空間に身を委ねると、改めてそういう現実(Reality)の多層性が観劇後にじわじわと感じられたのは不思議なことだ。心は時相の遅れをもって体験する。

多くの小グループが移動しながら、うまい具合にそれぞれのグループが交叉していく。演劇の物語も同時進行している。

後で考えても、いかに緻密な計算と、役者さんたちの稽古があったかと思い、伊藤さんの構成力と役者さんに脱帽した。

観劇中には、スマホのアプリと連動させながら、バーチャルリアリティーと現実とが互いに影響し合う仕掛けになっていて面白かった。(自分はガラケーなので、スマホは案内役の方にお借りした)

最後は、AIと人間との関係性の中で、観客にも主体的な大きな選択や判断が求められた。その選択次第で結末も二通りに変わりうるものとして、演劇の脚本も作られていた。

もちろん、現実はそう簡単に二択化されるものではなく、第三の道を探る必要があるわけだが、二択で迫られる決断に、少し焦った。

 

この演劇の中では、<人間の主体性>が大きなテーマにもなっていると思った。最後も参加者の<主体的な選択>が求められた。

日常の中でも、僕らが常に主体的に何かを選択するのは大変なことだ。たいていは流れるプールに浮かぶように、多数決で決められた選択を進みたくなる。

もちろん、それは多くの点においてはそう間違っていないかもしれない。

ただ、そうした大きな潮の流れ自体が、誰かの意図やエゴによってつくられているとしたら、しかもそれが短期的な視点でつくられれているとしたら、大きな判断ミスにつながることもあるだろう。しかも、それは全員が無意識にでも「判断した」「選択した」と見なされることになるのだから。

AI・機械と人間との関係性もそうだ。

今までの人類が生み出したことがない事態が訪れるわけだから、AIや機械がなぜ生まれたのか、その本質からぶれないように関係性を結ぶ必要がある。

 

ふと、遊びと儀式について考えた。

オランダの歴史家ホイジンガ(1872-1945年)は、人類という種において「遊び」を強調した。

人類を「ホモ・ルーデンス(遊びをする類)」と表現したのもそのためだ。

いまの遊びに残る「かごめかごめ」も、元々は宗教的な儀式で、儀式が遊びに形を変えて残っているもの。

遊ぶことで思考と肉体を自由に働かせるところから、「超越者」とのつながりを考えた。

また、フランスの哲学者ロジェ・カイヨウ(1913- 1978年)は、遊びと儀式を区別し、「儀式」こそが絶対者につながる方法として重視した。儀式の次に仕事があり、遊びは最も価値が低いものとした。

では、遊びと儀式の違いは何だろう。

遊びは自由度が高く、形が定型として決められているかどうかがその違いだと思う。儀式は自由度が低く型が決まっている。

ただ、現代は儀式の本質的な意味が忘れられ、儀式を通じて絶対者へと至る道が閉ざされている。

だからこそ、現代では、「儀式」と「仕事」と「遊び」と、ヒエラルキーではなく、同じ平面上の円環構造にあるのだろう。

入り口はどこからでも入れる。儀式でも、仕事でも、遊びでも、そして演劇でも。

子供を見ていると、遊びを通じて個人的な儀式を行っているように思える。

例えば、部屋の端をすべてたたかないと部屋に入れない自閉症の子がいたりするが、そういう子はおそらく部屋に結界を張る儀式を本能的に行っている。

 

今回の『サファリング・ザ・ナイト』での演劇空間は、そうした遊びのような、儀式のような、その間をつなぐものを感じた。

現代は、「超越者」の座が、神からAI(人工知能)に移行しようとしている。そうした「超越者」へと至る道としての遊びを失い、儀式を失った現代だからこそ、こうした守られた空間の中で演劇を体験することが必要とされるのだろう。

ただ、演劇も空間が固定化されると硬直化してしまうことがあるため、今回の試みのように空間そのものを固定化しない形は非常に面白いと思った。

舞台芸術集団 地下空港の『サファリング・ザ・ナイト』は、そうした儀式性や遊び性をふんだんに含んだ面白い体験でした。

是非行ってほしい!3月12日まで!まだ開幕中なので急いで見に行ってほしいです。

ロングラン公演にしてもいいのではないかと思う質の高さと面白さ。今後にもいろんな可能性を含んだ、とても刺激的な舞台。

俳優さんも、みなさんの声がとても力強く、演技もうまい。そうした目立たない底力も、演劇の質を底から支えていると思いました。

とにかく、面白かった!!

舞台芸術集団 地下空港 主宰のブログ。

(こちら、去年地下空港で書いた感想を見つけましたので参考までに。)

bottom of page