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水と太極

出遅れましたが、あけましておめでとうございます。

年末は家族がバタバタとインフルエンザにかかり、すべての予定を変更して養生の時間に。

私は軽かったので看病に周りながら、改めて健康のありがたみを感じ続ける年末年始でした。一日一日を与えられていることを嚙み締めながら。そして、生活や暮らし、というのが日々の根本である、ということも体験させられる年末年始。


家族が寝込んでいる中、今年暮らした空間に敬意と感謝を示すように、自宅を掃除をしながらふと思ったこと。


汚れがある。見つけて磨く。水で洗い流す。

確かに汚れは落ちた。

でも、この汚れの粒子は、汚れの本体はどこにいったのだろう、と。それは水で流された。目の前から見えなくなっただけで、どこかに流れていっただけだ、と。



その時、ふとPFASのことを思った。

「PFAS」は人工的に作られた有機フッ素化合物で、1万以上の種類があるとされる。水や油をはじき熱にも強い。フライパンのコーティング含めて幅広く使われてきた。魔法の物質と言われていたこともある。


ただ、PFASは自然には分解されない。長く環境に残る。体に蓄積されやすい。永遠の化学物質とも呼ばれている。


NHKスペシャルでも特集された。岡山。「えみおわす」のご夫婦が出ていたのにも驚いた。




PFASに関して、国は健康に悪影響が生じない基準として、水1リットルあたり50ナノグラムという目標値を設定した。

50ng/L。


ng/Lという基準はどれほどミクロな世界のことなのか。


1ng/Lは、東京ドーム全てに水を満たしたとすると、そこに1.2gの物質が溶けると、1ng/Lとなる。

お米1粒の重さは、約20㎎(0.02g)なので、東京ドームの水に60粒のお米が溶けている濃度!

水にミクロな物質が溶けている。こんな微量でも人体には有害となる。


一粒の水の中に、どれだけのものが溶けこんでいるのだろう。



次に、温泉のことを考えてみたい。

温泉水は、ただの水ではない。水にミネラルが無数に溶け込んでいる良質・上質の水だ。

水にも質の違いがある。上位概念の水と考えていただきたい。



例えば、温泉で「硫黄泉」と呼ばれるものがある。硫黄の濃度が2㎎/㎏以上であれば硫黄泉となり、それ以下だと硫黄泉とは呼べない。


温泉でよく使われる「mg/L」も、かなりミクロな世界だ。


1Lのペットボトルに、お米ひと粒(約20mg)の20分の1の粉が溶けていると、1mg/Lになる。

お風呂で考えてみると、風呂の浴槽は約200リットルの水。浴槽に0.2gの物質(=お米10粒)が溶け込むと、濃度が1mg/Lになる。


その程度の微小なレベルで、温泉の泉質は変化する。体への影響も変化する。一粒の水を見ながら、そこまで想像したことがあるだろうか。


ちなみに、1mg(ミリグラム)の1/1000が1μg(マイクログラム)で、1μgの1/1000が1ng(ナノグラム)になる。

温泉の濃度のレベルと、PFASの濃度のレベルの違いは、さらに100万分の1の違いもある。

浴槽の水と東京ドームの水くらいの違いがあるから、一滴の水の中に、すごい世界が広がっているものだ。



人間のいのちは、細胞によってつくられている。

ひとつの細胞の大きさは、20μm(マイクロメートル)(0.02mm)で、インフルエンザウイルスは0.1μm(マイクロメートル)(0.0001mm)のサイズ。

こうしたミクロな世界は目には見えないが、確実に人体に影響を与えている。



それは温泉でもPFASでも同じ。

そこには常に水という存在が媒介になっている。



・・・・・・


東洋哲学での太極図というものがある。

陰と陽がバランスを取り合っている図だ。





西洋のように善と悪、プラスとマイナスを明確に分けるのではなくて、陽の中にも陰があり、陰の中にも陽があり、しかも全体としてみると陽でもあり陰でもある、という多重の意味を含んだ図だ。ここに東洋的な考え方の縮図がある。

私たちに起きていることも、すべてこうした陰と陽がからみあってできている。陰と陽は常にせめぎあうかのようにして存在している。

病や死も、必ずしも陰やマイナスやネガティブや悪いもの、というわけではなく。そこには陽やプラスやポジティブやいいものも含んでいる。さらに俯瞰して見ると両方を同時に含んでいる。どちらかだけを見るとどちらかしか見えなくなる。

両方を同時につかみとる視点や視野や眼差しこそが、世界認識の立場として大事だ。


自分は医師として、常にそうした視点で人体やいのちや人生を見つめてきた。

目の前に見えるものが、一見悪いものに見えたとする。

でも、それは一つの視点でしかなくて、本当はそこにいいものも含まれている。闇だけではなく、光へと向かう兆しも含まれている。もしそこに光へと向かう道筋があるならば、闇だけを見つめるのではなく、そこに光の兆しも同時に見つめる。光を育ててゆくように。


もちろん、闇も光も同時に含んだものが実相だからこそ、光だけを見るのもバランスを欠くものだ。

闇を含んだ光、弱さを含んだ強さ、暗さを含んだ明るさ、悪を含んだ善・・・・、といった全体性をこそバランスよく見つめるバランス感覚こそが、肝なのだ。




水に関しても同じことだ。


水は生命の源。

あらゆる生命には水が媒介している。

ただ、水は水難も起こす。

生命を育む水は、汚れを流してくれる。ただ、その汚れはどこかと合流し合体し、大きな汚れを生み出している可能性すらある。


水は何物にも形を変えるからこそ、大きな力となる。時には岩をも砕く。柔らかく破壊を起こす源でもあるものだ。

ただ、水難さえも、人間社会にとってはマイナスのように見えても、地球全体のバランス活動としてはプラスの働きを起こしている。誰の視点で見るかで、物事はどうとでも見える。世界の見え方は、決して同じではない。



・・・・・


2024年から、水の存在が気になった。

温泉を介して水の研究に取り掛かることになった。健康や幸福を考える道でもあり、同時に地球の共有財産(コモンズ)を考える道としても。


自分は独立研究者ともなった。


研究は誰からも邪魔されることはない。ただ、知りたいから研究を続ける。それは生命の神秘そのものにもつながっていると思うからだ。森羅万象が研究の対象となる。


思えば、自分は最初にお風呂に入った時の記憶、身体感覚を克明に覚えている。

記憶は赤ん坊の時なのだろうか。

水の一粒一粒の粒子が生き物ののように見えた。


ひとつぶ、ひとつぶの水滴は単独で存在しながら、つながりあうと大きな水になり、そうした分離と統合を繰り返す水の存在が生命のように見えて恐ろしかった。これは一体何なのだ、と。それは恐怖というよりも畏怖の感覚に近い。水は雨にも海にも泥にも水道にも鼻水にも小水にも血液にも、あらゆる形態に形を変えて存在している。









・・・・

折口信夫が、古代研究の中で「若水の話」という文章を書いている。


魂と水の関係を書いた文章だったと記憶している。

人が死んだ時に水を飲ませるのも、水が魂の運び手になると考えられていた哲学の現れでもあり、ケガレを流すだけではなく、魂を蘇らせる行為でもあった。


生まれたときに使う産湯も、産土さまがお守りしている土地の水を使うことで、単にケガレれを祓い清める水としてだけではなく、神々が住む常世の国から来た水を使って新しい生命の誕生(魂の再生)を祝う。そして、土地の魂と水を介してつながりあう儀式でもあったと。




 

2025年は、水のことを深く理解し、深く体験する年になるだろうと思います。

そこには陽(プラス)だけではなく、陰(マイナス)だけでもなく、陰も陽(Yin and yang)も含んだ全体像を見つめ続けることが、大事なのだろう、とも。

日々の生活。いまこうして生きていること。

そうしたことを大切にかみしめながら、2025年という年を送りたいと思ってます。






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