何を感じ、何を思うのか

「校庭を5周走ってきなさい!」と言われて1㎞走るのと、自分の健康のために自分の意思で喜びとして1㎞走るのでは、物理的には同じ1kmなのに、体への影響、心への影響、自分が得るものが違うのはなぜだろうか。

このことは小学生のころから疑問に思っていたが、いまだにその問いは完全には解けていない。


それは人間が「思う」ことがすべてのはじまりとなり、物がつくられたり、家や町がつくられていく・・・、という不思議な現象とも似ているのかもしれない。 起点としての「思い」に、形や実体はない。


そうしたことは日常の生活においても同じことだ、とも思う。



仕事にどう取り組むのか。 同じ時間を費やすのなら、喜びのために使いたい、と「思う」。


疫病や争いが渦巻く現代の中で、どう生きるのか。 だれかの意図が込められた情報で振り回されて生きたくはない、と「思う」。


時代精神のようなものから何かその本質を受け取りたい、そこで何かを決断しどう生きていくのか。 与えられた力を、どう生かすのか。 最終的には死と生とが融合してひとつの結末を迎えるこのかけがえのない人生を、どう生きるのか。



いろいろと「思う」のだが、実体のない「思い」は、どういう形態をとってこの世に顕在化してくるのだろう。何年も何十年もかかるのかもしれないし、死んだ後にもどこかに影響を与え続けるのかもしれない。


横尾さんの突き抜けた本、異次元から差し越す光を味わいつつ、そんなことを「思う」。


何を思うのか、ということは誰にも干渉されない聖域だが、その聖域こそが自分がしっかりと守るべき砦だ。


外は雪だった。