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イメージ世界は意識の底を支える

「新型コロナウイルス」は実態でありながら同時に概念でありイメージでもある。


実態としてのウイルス対策がいちばん大事だ。

それは医学や公衆衛生の範囲内でもあるけど、現代医学が病気学をメインにした学問・実践体系だから、「予防」や「衛生」に対する対策がスッポリ抜け落ちている。だから「病院」も機能不全になってしまうのが現実。なぜなら、病院は病気対応(肺炎など)がメインだから。

今後は「健康学」を扱う場所が必要で、今のシステムでいえば、「保健所」は大事な場所になるはず。

個人の「健康」、街の「健康」、都市の「健康」、ひいては地球の「健康」を守る場所が求められているのではないかな、というのが自分の思い。

予防は「病気」への対応ではなく「健康」への対応になる。

この辺りは社会が全体性を失ったからこそ、起きている現象で、全体的なコンステレーションを読み取る必要がある。自分は、自分の持ち場(主に医療)の課題として受け取っている。



今の「新型コロナウイルス」の問題は、「実態」よりも「概念」や「イメージ」の問題が大きい。

そして、僕らの意識世界のすぐ底にあるのが「イメージ」の世界だから、イメージの世界に動かされると、すべて意識下に制御できたはずだ、と思えていた行動もおかしくなる。

これはアートや音楽を含めて、無意識の世界と深く交流している人なら分かるはずだ。意識の下にあるイメージの世界に操られて、意識世界が混乱してしまうのは、日ごろから無意識世界と仲良くしていないせいじゃないかなぁ。無意識と仲良くするためにも、芸術は呼吸するように日々大事なんですよ。 

ちなみに、意識世界の住人(お固い仕事ですね)が年をとると、不倫スキャンダルが出てくるのも同じ現象。「魂」は内的には異性の像として立ち現れてくる。魂との対話の第一段階はエロスとの関係から始まるから、内的世界の魂の問題と、外的世界の女性とを混同すると、不倫という形でしか魂と出会えなくなる。ある意味では無意識世界からの復讐劇。



こうしたことは意識世界が無意識世界という土壌の上に建てられている以上、いろいろな時に現象化する共通した無意識の世界のはなし。だから無意識の対話は日ごろからする必要がある。素振りやジョギングのようなものだ。



本当に、人間は意識と無意識との正しい関係性、対話こそが大事だ。



今の問題は、実態としてのウイルスへの対応ではなく、むしろ無意識のイメージに動かされていることが問題。無意識のイメージも、ウイルスのように感染していく。


だからこそ社会には「流行」が存在するわけですよね。商業界はイメージを利用しているから。CMや広告のイメージ戦略も同じですね。イメージ世界をあまり悪用しすぎると無意識界から復讐されてしまうんじゃないかな。自分で蒔いた種は自分で刈り取らないといけないので。


「ウイルス」という言葉によって無意識のイメージが活性化されてしまった。そこには死や怖れや暴力などあらゆるパンドラの箱がある。異界のドアが開く。


意識と無意識の壁が分断されている人は、無意識の不気味な場所が動き出すと、不安と結びつき、おそれへと連鎖していく。ソワソワした心の動きは行動へも波及する。無意識の動きをよく把握できず、意識世界が壊れてしまうのが問題だ。(別の観点で言えば、それほど意識の世界は脆く、意識で作られた脳化社会は脆いということでもある。)



無意識の力で意識の体系が容易に破壊されないために、意識世界は「理性」と「感情」という別系統のシステムを持っているはずなのだと思う。その二つは時に対立するが、時に補い合う。意識と無意識との関係性のように。


こうして起きている現象の全体像を見ていると、今何が問題で、これからどういう課題解決をしていくべきなのか、リアルタイムで人類規模の課題を突き付けられているようで、身がひきしまる。



風の谷のナウシカで言えば、ウイルスは見えない王蟲?森の人はどこにいる?ナウシカなら何と言う?ナウシカは最後に虚無との戦いを経て、何を見た?


結局は、何を大切にして生きるのか、ということ。

そして個の問題と場の問題とを改めて考えさせられるなぁ。


個は自分を守ることが大事。

場は場を守ることが大事。

個と場の二つは利害が衝突する。


実際、人間以外で、個と場とをここまで両立させて生きている生き物はいない。

だからこそ、人類はその課題を引き受けている存在でもある。


(風の谷のナウシカ 6巻より)












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