あたらしい一日

大晦日から元旦へ、という暦の切り替わりは、自分の頭の中も真っ新に神聖な気持ちで切り替わる気持ちがします。

元旦に掲載された広報かるいざわ2022年1月号、新春の記事です。

今年もよろしくお願いします!(^^









 

2022年、明けましておめでとうございます。

2021年は、伝染病(疫病)の流行によりあらゆるものが分断され壊れた年でもありました。2022年は、新しいつながりや創造こそがテーマになる一年になるだろうと思います。春夏秋冬が巡るように、冬の時期は春の準備として静かに力を蓄え、新しい何かが芽吹く準備段階の大切な時期でもあるからです。

自分や共同体の中に、形として顕在化されることを今か今かと待ち構えているものがあります。形になることを求めているものに対して、生命の息吹を与えて芽吹かせていくこと。種から芽が出て、花が咲き、果実が実るためには、環境の条件が整えさえすれば、おのずから芽吹いてきます。

個人の花壇にある夢や希望だけではなく、夢を大きな大地で共有することで、現実世界に新しい花が咲きます。土の条件を整え、水を与え、太陽の光を与え、時には風雪から守りながら、育んでいくこと。軽井沢とも縁があるアーティストであるオノ・ヨーコさんは「一人で見る夢は夢でしかない。しかし、誰かと見る夢は現実になる」と語りました。

 日本語で「自ら」という言葉があります。「自ら」は、ある時には「みずから」と読み、ある時には「おのずから」と読みます。この言葉の中には、「みずから」と「おのずから」の「あわい」(重なっている領域)にこそ真実があるのだ、という日本語のフィロソフィーが隠れています。これまでの出会い、職業や人生の選択、あらゆる分岐点を考えてみてください。「みずから」選び取った運命だという側面と、「おのずから」そうなったとしか言えない運命の流れ、そうした二つの流れが合わさっていると感じられるのではないでしょうか。結婚の挨拶でも、「わたしたちは結婚することになりました」と表現します。結婚を決めたのは個人の自由意志のはずなのに、なぜ「おのずから」結婚することになったという表現を好むのでしょうか。それは、わたしたちの人生には、個人の意思や思惑だけではなく、個人の計らいを超えた巨大な運命の流れや力が働いていると感じるからこそ、そうした表現が言葉として残されているのだと思います。「みずから」決めたことと、「おのずから」そうなったとしか言えない流れが重なった「あわい」にこそ、私たちの人生の真実がある。そうした感性が「自ら(みずから・おのずから)」という言葉の中に祈りのように込められているのでしょう。

大晦日から新年を迎える日に、わたしたちは祈りを重ねます。宇宙空間に浮かぶ太陽と地球との関係性の中で、太陽が昇り一日がはじまり、太陽が沈み一日が終わる。道元禅師が「放てば手に満てり」と言うように、手放したからこそ、大切なものが入ってくることもあり、そうした積み重ねこそが一日、一月、一年、一生を構成しています。元旦を迎えるときの神聖な気持ちを、日々の日常の中で感じ続けることができれば、わたしたちの人生は常に新鮮なものとなります。一日一日が再生の儀式のように、生きなおし生まれなおすことができるのです。新しい一年の始まりは、自分自身の原点を思い出させてくれる再生の日として過ごしてはどうでしょうか。