top of page

塙保己一とヘレンケラー

「萬福寺 宝蔵院」の記事を書いた。

そもそも、なぜ「萬福寺宝蔵院」を知ったかというと、ヘレンケラーが最も尊敬する塙保己一が、この版木を参考にして大偉業を果たしたらしい、と聞いたことから自分の興味が始まった。

ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしなさい」と母から教えられていた。 アメリカに住むヘレンケラーが、江戸時代の日本人を目標として生きていたのだ。

1937年にヘレン・ケラーが初来日した時、真っ先に渋谷の温故学会を訪れ、保己一の座像や机に体全体で愛おしむように触れて、深い内的な対話をしている。

「私は子どものころ、母から塙先生をお手本にしなさいと励まされて育ちました。 今日、先生の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なことと思います。 先生の手垢の染みたお机と頭を傾けておられる敬虔なお姿とには、心からの尊敬を覚えました。先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」 と語っている。(塙保己一史料館・温故学会より→ヘレン・ケラー温故学会を訪問

 

ヘレンケラーがそれだけ尊敬した塙保己一(1746-1821年)は、なぜか日本であまり知られていない。

塙保己一は、江戸時代の偉大な国学者でありながら、全盲の障害を抱えていた人でもある。

古代から江戸時代までの史書や文学作品、計666冊の百科事典として『群書類従』を作った。

34歳で思い立ち、完成したのが74歳。

すべての文献は耳で聞いてすべてを記憶したとされる。

1793年から1819年にかけて『群書類従』は木版で刊行され、その木版は1万7千枚近くに及んだ。

この『群書類従』の版木は20字×20行の400字詰に統一させているが、この原稿用紙の基本様式を最初に作っているのが、今回訪れた萬福寺宝蔵院にある「鉄眼版一切経版木」だと聞いていた。

宝蔵院には6万枚にも及ぶ膨大な版木が今も大切におさめられていると聞き、京都に行くときに生で見てみたいと思っていた。

やはり生の体感に勝るものはなく、当時の祈りのようなものが自分の中になだれ込んできたのを感じた。

ちなみに、塙保己一の『群書類従』の編纂が行われた和学講談所は、東京大学史料編纂所に引き継がれている。

是非、渋谷にある塙保己一史料館・温故学会にも訪れてみてください。

祈りは時代を超えて形を変えて残っている。発見され見出されるのを待ちながら深い眠りについているのだと思う。

受け継ぐ人を心待ちにしながら。

bottom of page