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深い井戸を介したつながり

今回のコロナウイルスは、地球規模の問題です。

ですから、「地球」という全体性のバランスを考えて生きる時代に突入している時代なのだと思います。 誰もが地球の根っことつながり、誰もが宇宙と一対一で対峙する感覚を持った時代です。 急性期医療と慢性期医療。 二つは独立に、そして相互に合わせ鏡のようにして考えて行く必要があります。 急性期医療。 コロナウイルスのような伝染病とされる感染症では、独立した医療機関が必要です。結核では空気感染するので場所を隔離します。同じような隔離・独立施設が急務でしょう。地球上に、あらゆる人工的な建造物がたっている今、既存ものでそのことは容易なはずです。普通の医療機関の中で伝染病を扱うからこそ、現場の混乱が起きています。 軽症と重傷者をしっかり見分け、とにかく重症者の「いのち」を助けることに医療資源を集中させるしかありません。 そして、そのときにも大事にしたいことは、「病」への対処としてやる感覚よりも(そうすると、ウイルスを敵とみなしてしまい、敵と見る闘いは永久に終わりません)、「健康」への道筋として、ウイルスの対応を考えることです。ウイルスを敵とみなす必要は全くありません。敵や見方か、という二分法ではなく、自分自身の「健康」と、社会の「健康」を目指して、いまやるべきことをひとつひとつ丁寧に積み重ねていくことが必要です。 慢性期医療。 心のケアが大事です。体の健康だけではなく、人は心の健康も必要なのです。 人間の営みにおいて、いかに「つながり」が大事だったをわたしたちが身に染みて感じているので、善意が還流してうまく「つながる」方法を考えていき、その一環に医療施設も生まれてきます。 医療施設は、急性期医療(現代医学・西洋医学)を専門施設としながら、そこを補い支えるように「健康」を扱う場がうまれてくるはずです。新しい医療の場では、「健康」を考えるために、あらゆる文化や手段が寄り合う磁場のような場所になっていきます。「お金」を中心にした場ではなく、「いのち」を中心にした場。最初は多少の混乱が起きて、いんちきやまがい物も横行しますが、「場の健康」を考え続け実践し続けることで、「場の力」により、健康な心に感化されていくでしょう。 慢性期には、個人の健康だけではなく、場の健康や地球の健康を同時に考える必要があります。 今回の事態が地球規模で起きている以上、地球規模で関わっていることを、ひとつひとつ是正していく必要があるでしょう。 自然破壊はもちろんそうですから、ある程度自然を戻し、他の生物の居場所を与え、共に共生していく必要があります。 人工的な電気システムや電磁波システムが地球を覆うようになったことも、生物の居場所の変化と影響してくるでしょうから、科学技術が地球規模に過剰に影響することは慎んでいく必要があるでしょう。 いづれにせよ、そうした時代で生きていく必要がある以上、どんな時でも「大丈夫」だ、と思える社会の構築へと、向かっていく必要があるのだと思います。














 

コロナに関する「病」を考えるだけでは、社会構築は進みません。

そうではなく、個人の「健康」と社会の「健康」へと向かいながら、その全体的なプロセスの一環として、コロナウイルスに関しての「病」へのアプローチが必要だと思います。「病」を中心に社会を構築しても、常に対症療法であり、あくまでも、大枠で考えていくべきことは個人の「健康」と社会の「健康」こそが根本治療になりえます。 社会の「つながり」の流れを考えてみます。 過去の村社会では、「村」の小さい単位でつながっていました。「つながり」にはいいことも多いのですが、村八分や差別、不自由などの問題もあり、「広いつながり」を求め、社会は都市化へとうつりました。都市化は脳化でもあり、脳で考えたものを実現していく時代へと。「つながり」から「離れる」時代へと移行しましたが(村上春樹さんが言う「デタッチメント」の時代)。つながりを切断したことで自由を得ましたが、人は孤独になりました。村や共同体は機能しなくなりました。その次として、「新しいつながり」の時代へと移行し、新しい共同体の再生をネット端末のつながりが後押し、いかにわたしたちが「新しくつながる」かの時代へと突入し始めていました。そしていま、コロナウイルスにより「つながれない」時代へと新たに突入しています。 ただ、大事なことは「つながっている」事実よりも、「つながり方」であり「つながり先」であり、「つながり元」であり、自分のどこと他者のどことが、どういう通路でつながるのか、ということなのです。 結論から言うと、村上春樹さんがねじまき鳥という長大な物語で紡いだような「壁抜け」のようなつながりの時代になるのでは思います。 つまり、それぞれが存在や命の源を掘るしかない。そこはもう避けることができない時代になる。存在や命の底を掘ると、そこでは自分の中にある見たくない現実や影とも直面し対決する必要があります。ただ、だからこそ周囲の力を借りながら、色々な苦難を乗り越えていく。そうして自身の深い存在の源に降りたった時(深い井戸に降りた時)、そこでふっと壁を抜け、時代を超えて、つながる場所がある。それは深い精神的なつながりと言えば軽く感じてしまうかもしれませんが、魂や命の奥底で強くつながることです。自分自身も、故人であってもビートルズや岡本太郎や手塚治虫、あらゆる故人に深く深くのめりこみ、「壁抜け」のように常につながっている感覚があります。自分の危機的状況にこそ、彼らは命の声をあげはじめるような存在なのです。 そうした次の時代の真のつながりに、これから移行していくのではないでしょうか。 それは「いのちの輪」と表現されるような、「いのち」の流れの中でのつながり方になると思います。実際、わたしたちのいのちを支える食は、命あるものから命を分けていただくことでそれぞれが生きているわけです。そうした「いのち」の事実(真実は時に劇薬です)に向かい合う必要があるわけです。 だからこそ、表面的には一時的に「つながる」ことができなくても、むしろできないからこそ、真の「つながり」があぶり出されてくる時間のような気がしています。

ゲーテ詩集 『永遠の峻厳な 

大いなる法則にしたがい 

われらはすべて 

われらの存在の 

環を完成しなければならぬ』

















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