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中動態と仏教とお金とBrutus No.922

8/12の早島英観さん(千葉県南房総市 妙福寺住職)とのZoom対話(+新刊記念)、楽しかったです。


 ■2020/8/12(Wed)(19:00-20:30)(Online):

 稲葉俊郎 新刊記念イベント『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ)

  × 早島英観(妙福寺住職)対談(by.寺子屋ブッダ)

 →Web



自分は「いのちというフィロソフィーを中心にした場」というものを新しい医療の場として作っていきたい、とささやかに思っているのですが、まさにお寺はそういう場なんですよね。

中心には仏さまがいて、庭も空間もすべて「いのち」のメタファーとして解釈できるような場づくりがされているのが、まさに「お寺」の空間。


早島英観さんと「中動態(middle voice)」の話ができたのもうれしかった。

まさに、仏教の原点であるサンスクリット語も、中動態の言語世界でした。


今は、能動態には受動態、ですが、古代言語では能動態には中動態が対応していたようです。


現代用語でもある「能動態=受動態」の言語は、する・される、の言語で、これは法学的な立場から、誰に責任があるのか、という責任の有無を問うような近代語なんですよね。

こうした言葉を無自覚に使っていると、これはあの人のせい、あの会社のせい、、のように、お互いに責任を押し付け合うような社会になってしまうのではないのかな、と。さらに言えば、訴訟社会、クレーム社会へとつながるのではないのかな、と。そのことが現代のコロナ対策の過剰さにもつながっているように自分は察しています。


だからこそ、今後は「中動態」という態度を大切にすべきではないかと提案したいのです。

かつて、「能動態=中動態」だった時代、「中動態」は自分の中で行為が完結しているもの、「能動態」は行為が外に及んだり外の影響を受けるもの、という違いだったようです。

動作が主語へ向けて行われる「中動態」と、主語から外に向けて動作が行われる「能動態」。近代、「中動態」の一部として「受動態」が生まれたとされます。


「中動態」のように、自分の中から沸き起こる声や感覚を大切にしていく態度や言葉使いこそが、次の新しい社会構築へとつながる言語体系なのではないのかな、と思います。


青本「いのちは のちの いのちへ」にもその辺りは簡潔に書いていますので、ぜひお読みいただきたいです。


中動態(middle voice)のことを、早島英観さんが仏教的観点から読み取っていただけたのは感激でした。まさに、仏教では「中動態」の言語に満ちていますね。だからこそ、仏典やお経を読んでいると心地よいのだなぁ、とも。







 

そろそろ店頭に出るBRUTUS No.922(2020年9月1日号)特集「お金の、答え。」(8月15日発売)、自分も出ています。ぜひお読みいただきたいです。

あらためて記事を読んでみると、「中動態」のあり方にもつながることも、取材で話しているような気もします。


自分としては、「いのち」や「病」と同じように、「お金」を別の観点でとらえてみませんか?と提案しているつもりです。「中動態」での「お金」のとらえ方、とでもいいますか。


自分がどこで写真撮影しているのか?軽井沢フリークの方には分かるかもしれません。


エヴァンゲリオンの庵野秀明監督も、エンターテイメントの「価値」について語っていたり、読み応え十分です。

ぜひ手に取ってお読みください!


●2020/08/15:BRUTUS No.922(2020年9月1日号)特集「お金の、答え。」お金、ちゃんと使えてる?「私のお金ルール」稲葉俊郎(→Brutus








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