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自然治癒力が発動する街や暮らし


前世の記憶か、というほど、すでに東京というメガシティーは懐かしい気持ちになる。 人類は自然から脳化社会としての都市をつくり、ある極点に至った。それは別に悪いことではなく、歴史の必然だ。

過去にこだわるのではなく、さて、いまからどうするのか、と、視点を今ここと未来へ向ける。時は常に流れ続けている。 脳化社会の極点としての巨大都市に住んでいたからこそ、次のステップへと進めるのだから。 いまある問題の本質をカオスの中から発見し、現在の課題として受け取る。ベストを尽くして課題解決をはかり、次の世代へとトーチを手渡す。 次の時代の社会のありかたを、軽井沢をモデルにしながら、存在が肯定される健康的で生命を中心にした街づくりの大河の一滴になりたい。医療は、あくまでも社会全体の役割のひとつだ。

上野公園は人がいなかった。ホームレスの人は野生の眼を光らせる。ギラリと虚空をにらみつける西郷さんは、明治という激動期にどういう未来を夢見ていただろう。今は過去にとっての未来であり、今は未来にとっての過去の1コマだ。今を生きる人が、時と時とを結びつけている。













 

東京から軽井沢への新幹線での帰りでふと浮かんだこと。


子育ては、同時に親育て。 そして、過去に自分がしてもらって記憶の海から思い出せなかったことを思い出すきっかけになる。 そして、都市の成長も、人間の成長のあり方から学ぶことができる。生命ある社会のためにも。 子どもになんでもお膳立てして、レールを敷き、一から十までお節介し続けると、子どもはスポイルされ、子どもも大人も自立できない。 では、放置すればいいか、というわけではなく、共同体の網目が壊れた現代では、放置されると何とも深い関係性を結べなくなってしまう。

動物と植物の二つの世界をあわせもつ人間は、動物の成長、植物の成長、二つの世界の成長のありかたから、学ぶ必要がある。つまり、適度な距離を持ち、暖かくも厳しい、冷たくも優しい、相反する両極のバランスと距離の緊張を持ち続ける必要がある。水をやり過ぎず、放置しすぎず。

花瓶や花壇の花は、人が枠を作ったからこそ、水路の役割を人が担う必要がある。子どもは家族が世界の全てになるほど強い枠組みになるから、水路づくりとしての親や周囲の存在が必要になる。 距離が近すぎれば離れ、離れすぎれば近づく。たゆまない日々の距離感の中で、おのずから内蔵された力で生命は固有の花を咲かせる。誰とも比較できない世界。

禅僧の鈴木大拙は、仏教での無心は、キリスト教での、神の御心のままに、と同じだと言った。無心や神の御心が働く場がありさえすれば、固有の土壌からは固有の花が咲くだろう。 人が自分の尺度で成長していくプロセスが実現できる暮らしの場があれば、人は病と健康を共存して生きることができる楽しい街になるだろう。それは教育の課題であり、治癒のプロセスから見れば医療の課題でもある。 そうした生命の成長を、都市に見立ててみると、どういう都市になるだろうか。 ひとつの極はすべてをお膳立てしてレールを敷いた都市。脳化社会の極点。 ひとつの極は完全に野生化され自然界と渾然一体になった社会。すべては神の御心のままに。

教育は、教え、育むと書く。教師と育師があわさると教育師になる。 人の成長モデルと、都市の成長モデルとをパラレルに考えていけば、教育も街づくりも医療も、同じ地平で考えることができるはずだ。

法律の世界も、犯罪者を基準に法を考えるだけでなく、健全な人間を基準にした法を考えれば、社会もまた変わっていくだろう。それは、病気学だけを考える医療だけではなく、健康学を考える医療が求められていることと同じ。病と健康は、対立概念ではなく、相補概念であって、二つ合わさってひとつのペアだ。 優等生でなく、無法者でなく、差別者でなく、朗らかで幸せで懐と情けが深く、生命の原型のような人。そんな人格をもった街に自分は住みたい。街が巨大な人間であるとすれば、その人間のどの臓器の部分を、自分は担えるだろうか。 そうした街では自然治癒力が発動する。 コロナウイルスという生命の介入によって、いろいろと考えるべきだった課題が手紙のように届いている。


明日から4月1日で新学期。区切りにはこうしたことふと思う。







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