聖域であるたましいを守り、いのちを守るためにも。
三浦春馬さんの訃報は胸が痛んだ。
自分が新著「いのちは のちの いのちへ」で書いたことも、まさにこうした事態を少しでも減らすような新しい医療の場を願って、書いたものだから。
芸能界の人は誰にも相談できない人が多い。医師として絶対に秘密は守るから、亡くなる前に自分にも相談してほしかった。 亡くなってからでは遅い。亡くなる前に。
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真面目な人ほど、反省、という行為が、自分を責める行為につながりやすい。
自分を責める回路から出られなくなると、どこにも居場所がなくなる。居心地のいい場所がどこにもなくなる。 ある場の中に閉じ込められると、そこに出口がない、と思ってしまう。
いまの回路を断ち切りたい、と思う時、眠ったり、お酒を飲んだりすると、一時的に「意識活動」が途切れるので、一時的なリフレッシュにはなる。悪いサイクルから、堂々巡りをする意識活動は一時的に抜けられる。
ただ、また現実世界が変わらないことに絶望すると、生きる複数の選択の中に死ぬという選択が入り込んでしまう。それは、眠りやアルコールで意識活動を一時的に変えることと同じ文脈だ。
生きていることがすべての悩みの根源なら死ぬしかない、と思い詰めてしまう。
心の病に悩み苦しんでいる相手に対して、「正しさ」や「客観的事実」を盾にして「責任」 を押し付けていくと、究極的には「生きていること」がすべての原因だと追い詰めてしまう。「生きている」から、こうなってしまったのだ、と。 そういう考えに閉じ込められると逃げ場がない。考えが煮詰まっていくと、自己否定や絶望から自死へと至る悲劇も起きてしまう。
因果論で物事を考え詰めていくと、そうした最悪の事態に陥ることがある。 未来へと視点が向け、近い未来ではなく、遠い未来を見ることが大事だ。月や宇宙の彼方でもいいから。
そうした視点の切り替わりが起きるためには、まず悩み苦しむ相手から「責任」という重荷を一度取り外すことが大事だ。
周囲の者たちが協力して、自然治癒力などの復元力がうまく働く土台を準備する(むしろ周囲の者たちが本人の自然治癒力を損なうように動き、言葉を投げかけている場合も多いから注意が必要だ)。
そうした環境整備によって、「治ろう」という生命の自然な欲求が生まれる土壌ができる。 そもそも、生きていること自体が前向きなこと なのだから。
周囲が手助けをして、「自己責任」・「自己否定」という言葉や思考回路と自分との切り離し作業を行ってみる。一度でもいいから重荷がなくなり、心に余裕ができた状態を体験してみる。見えざる圧力から逃れた状態を感じてもらう。
そして、音楽を聴くように良質な他者の言葉や思いやりに身心を浸せば、自分の考えだけが同じ場所を堂々巡りせずに別の思考の水路が生まれて来る。
そうすることで、自分の心の体勢 を整える余裕が生まれる。
心の水路を枯れさせず氾濫させず、適切に循環させる環境整備こそが大切だ。
個人のせいにせず、社会の構造の問題、場の問題として受け止めて、必ず次の社会創造につなげていかなければいけない。
芸能人ふくめ、有名人含め、今はSNSやネット世界でのバッシングが激しく、女子プロレスラー木村花さんが亡くなったことも、真剣に受け取める必要がある。
本来、「言葉」でのやり取りは、かなり高度なものだ。かなり抽象度が高い行為だ。
自分も本を書く立場になって痛感したが、自分が本当に思っていることを「言葉」に変換する、というのは、極めて高度で、かなりの訓練を必要とする。
著作でも、常に言い足りないし、常に言い過ぎる、と思い、何度も何度も書き直した。
こどものとき、「言葉」をなんとなく覚え、「言葉」でのやり取りをなんとなく学習する。
そのとき、「怒り」「支配」「欲望」「力」などを推進力として「言葉」でやり取りをしている大人や社会から言語を学習すると、言葉のやり取りがそうしたものだ、と誤って学習してしまう。
言葉を使う、という行為が、あまりに安易に行われている。
そうした時代に危機感を感じる。
たとえば、ヘイトスピーチのように、相手を傷つける言葉で「場を支配する」言葉のやり取りまでつながってしまう。
芸能人含めて、矢面に立っている人たちが受ける言葉の暴力には、想像を絶するものがあるのではないか。
だからこそ、今からは、言葉でのやり取りを全員が再学習する機会としても、「対話」を真剣に考える時代になると思う。
まわりの環境にはびこる、悪意に満ちた言葉をコピーして発し、そこになんの悪気も悪意もなく言葉をやり取りしている時代を、自分は次の世代に残したくない。
それぞれが、ちゃんと自分が吟味した言葉を絞り出す時代へ向かうためにも。
「言葉」というものをもう一度見直す時代。
そして、「言葉」のやり取りとしての対話を真剣に考える時代。
そうしたことを、大人になってしまうと「再学習する」機会がないことが、そもそも危ない。
もちろん、非言語での身体を介したコミュニケーションも、人間には絶大なる影響がある。そのことも共に考え、深めていく時代へと。
自分は、医療者としても、1人の市民としても、そうした安全で安心な場をつくる責任があると、日々痛感している。聖域であるたましいを守り、いのちを守るためにも。
三浦春馬さんの訃報を聞いて、子どもと散歩に出た。
コンクリートに踏んづけれた植物も、蜘蛛の巣に浮かぶ一滴の水滴も、こどものシャボン球も、自分には彼の魂の影のように見えてしまい、涙が止まらなかった。
青空を見ると、鳥が飛んでいて、それもまた、彼の魂のように見えてしまった。
人が一人亡くなるとき、世界はグラリとバランスが崩れるのを感じる。そして、また何か別の形へと変わってゆく。
わたしたちが心を動かして日々を生きていれば、ひとりの死も無駄にできないと、強く心が動くはずだ。
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