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「芸術と礼節の交点に霊性が宿る」(文學界 9月号)

August 22, 2019

「文學界 9月号」を読んだ。


普段読まないものも、村上春樹さんのロングインタビューが載っていることと、横尾さんの連載が載っていることもあり、運命は自分に読ませるようになんとか仕向けてくる。今日、偶然に手渡されたので読んだ。

 

 

 

 

 

 

春樹さんのインタビュー『暗闇の中のランタンのように』はかなりよかった。あっという間に読んだが、10年毎にスタイルを変えながら螺旋状に進化しながら40年にも渡り最前線で小説を書き続けている姿勢には恐れ入る。ちなみに、横尾さんももっと速いスピードで変化し続けている超人だ。何人の人生を一生の中で転生しているのだろう?

 

 

 

まず、春樹さんのインタビューから。
強く印象に残ったことを抜き書き。

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「戦争が今も絵空事ではないという意識は強くあります。
僕らが固い地面だと思っているのは、実は軟らかな泥にすぎないのかもしれないです。」
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「ギャツビーの淋しい雨の葬儀の最後に、誰かが「幸いなるかな、雨に打たれる死者は」とつぶやきます。それがすべてを語っているような気がします。柔らかな雨のような沈黙をもってしてしか、地下に運んでいけないものがあります。
それこそが、小説に書ける最も深いものごとではないかと。」
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「やはり、一番暗いところを抜けないと、回復はないと思うんです。一度出ていった人を再び受け入れるということは「赦し」です。
赦しというのは、本当に暗いところをくぐって、そこから抜け出すことによって、初めて出てくる感情だと思う。
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「赦しの感覚は、善とか、悪とか、光とか、闇とか、そういう判別を越えたものです。それを得るためには、「騎士団長」という「想念」をいったん自らの手で殺す経験が必要です。そうすることで初めて「赦し」というものが得られるのではないかという気がします。」
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「無意識の無明の世界を通過することによって、人は一種の「壁抜け」を体験します。それを「赦しの感覚」と呼んでしまうことには無理があるだろうと思いますが、それに近い感覚が生まれることは確かかもしれません。言うなれば、自分を多かれ少なかれ相対化できる視点。」
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「赦し」という宗教的境地を、宗教でも哲学でもなく、小説の文体で示そうとしていることに、敬意を抱く。まさに、それこそが創作者の「霊性」であると思うから。

 

 

 

次に、横尾さんの文章。
この小説にはピカソもデュシャンも、三島由紀夫も谷崎潤一郎も宇宙的存在も出てきて対話を始める。まさに横尾さんの一枚の絵画のような対話。

 

 

 


横尾忠則『原郷の森』
第二回「フンコロガシのように時間を転がせ」


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今は霊性について三島さんが語ってくれているけれど、生前は、霊性までいかないで礼性について、コンコンと諭されたことをおぼえている。
タテ糸が芸術だとすると横糸が礼節だ。その二つの交点に霊性が宿る。地上的な作品を作りたければ無礼でいいだろうが、天に評価される作品を創造したければそこに霊性が宿らなければならない。
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この文章をテキストとしてこの世に残してもらって本当にうれしい。


というのも、自分が横尾さんに最初に会った時、最初に聞いた質問でもあったから。
自分が聞きたかったことは、「三島由紀夫の死」に関することと、「人間の霊性(Spirituality)」に関することだった。


横尾さんは三島由紀夫の死の二日前に、死の前兆としての電話を受け取ったメッセンジャーでもあった。
自分の質問に、横尾さんからはすかさず上の文章そのものの答えがかえってきて、心底驚いた(そして、こういう質問を直球でだれも投げかけてこなかった、とのことだった)。まさに自分の興味(三島さんの死と、人間の霊性とは何か)は横尾忠則という人間の中で見事に同じ問題として交差していたのだから。

 

 

「芸術と礼節の交点に霊性が宿る」


自分は、この言葉を三島由紀夫が死をかけて示した遺言だと受け取った。三島由紀夫の遺言は、横尾忠則という最高の仲介者を経て、50年の時で熟成された上で、この世との通路を得た。 

『原郷の森』がいかに深い場所を通過した「壁抜け」の文章であるかが分かる。

 


『原郷の森』は1回目と2回目の文体は異次元のように変化した。
3回目もさらに楽しみだ。

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