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ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』@彩の国さいたま芸術劇場

彩の国さいたま芸術劇場で、ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』を見てきた感想を。

アテネオリンピック(2004)開閉会式の芸術監督、ピナ・バウシュ亡き後のヴッパタール舞踊団初のゲスト振付家、世界のダンス、演劇、美術シーンで最も熱い視線を浴びる人だ、という先行情報が先走り過ぎて気になり、思わず見に行った。

個人的には、大きく魂を揺さぶられる、ということはなかったのだが、西洋社会の歴史やパノラマ、その視点を、体験したような気持ちになった。

同時に思ったのは、パパイオアヌー氏が提示した世界観は、すでに横尾忠則さんが一枚の絵の中ですでにすべてをやっているよ、しかも、もっと遥かな次元まですべてを射程に入れてやっている!、ということ。講演を見ながら、なぜか横尾忠則さんのすごさを改めて思い知り感じ入る、という不思議な鑑賞体験でもあった。

(パパイオアヌー氏が、もともと画家志望だったため、そうした画家の視点を感じたからだろうか?)

あとひとつ、自分の中で奮い起こされたこと。

「東洋の視点」「日本の視点」で、こうしたパノラマ的視点を持った作品をやれないのだろうか?ということ。

今回の公演では、ギリシア神話も下敷きにある(パパイオアヌー氏はギリシア人であり、文明の起こりとしてのギリシアのプライドを強く持っているはずだ)。

そのうえで、西洋絵画の歴史、美学的な視点、美のイデアとしてのパノラマ的視点をふんだんにちりばめながら、西洋文明が到達した宇宙開発まで射程にいれ、かつ美も醜も、荘厳さも笑いもすべて抱え込んだ形で表現されていた。

ただ、ここに「自然への敬意」「自然への畏怖」のような視点が抜けていたことに違和感を覚えたのは、自分が日本人だからだろうか。

もちろん、日本人も自然は破壊している。

西洋哲学で、ニーチェが「神は死んだ」と言ったとき、多くの日本人はその深い歴史的な意味に、いまいちピンとこなかったと思う。ただ、日本では水俣病をはじめとした、公害が起きたとき、日本で「神は死んだ」大事件が起きたのだと思う。

つまり、海に有機水銀を流したり、空中に汚染物質を放出すること、日本人が自然すべてに神を感じていたのならば、神の身体を土足で踏みにじり汚し損なう行為で、そのことに痛みも何も感じなくなってしまったとしたら、わたしたちの「神」は死んでしまったのではないだろうか。それは、原子力開発にも通じている。なにせ、高レベル放射性廃棄物は10万年かけないと、自然や人体に無害なレベルまでならないのだから。

その日本での神の重みを、痛みと共に受け取らないといけない。

そういう現代だからこそ、パパイオアヌー氏が挑んでいるような課題に、東洋や日本こそが挑まないといけないのではないだろうか。自然と人間とが、適切な関係性を結びなおすために。

作品の本題とはずれたような気もするが、自分が横尾忠則作品のすごさを改めて感じてみたり(なにせ、横尾さんの作品には神羅万象すべてが一枚の絵の中に入り込んでいますから)、日本や東洋がパパイオアヌー氏の作品を超えるようなものを提示しないといけないのではないか、という課題を感じた、ということは、社会の闇に通じる深さや強度を、この作品が持っていた、ということでもあるのだろうとも思った。

そうした不思議な感じを受けた奇妙な作品ではあった。

見た人の背景にある文化や歴史を、あらためて見直してみようと、感じる人は多かったのではないだろうか。

(ちなみに、この作品は全裸が多く、テレビや映像では放映できない気がします。ただ、ビジュアル写真で見て想像を膨らませたほうが、なんだか面白そうな気もします。そうした視覚的な美意識は濃厚に込められた作品でした。)

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