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火+水=カミ

April 23, 2019

富士山静養園。
2万坪の敷地で行われている自然体感・滞在型の養生所、療養所。
日月倶楽部や、朝霧高原診療所とも、役割に応じて補い合って存在している。


自分もこういうことをやりたいんだよなぁ、という思いが、ムクムクとうごめく。
山本竜隆先生の実践には、本当に勇気づけられる思いだ。

 

自然というこの精妙なバランス。
自然という複雑にしてシンプルな全体性。
そうした精妙で神秘的な場にいるだけで、場の力に引っ張られ、体や心も全体性を取り戻すらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森や川の中にいると、大自然の中に小自然があり、その小自然中にミクロ自然があり・・・という形で、自然が無限小へと入れ子構造になっていることが改めて分かる。


大きい木の中にはすでに小さい木の芽生えが同時に生まれていて、分かちがたく結びついている。
そうした生命の同時進行、同時並列、同時で瞬間の全体性をこそ、自然に入るだけで全身が学びとり、受け取り、再学習し続けるのだろう。

 

あなたたちも同じなのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昼には光と水のシャワーを浴び、夜にはみなでたき火をした。

火を囲み、ただ共にいる。

たき火をしていて感じたこと。


炎の全体像は、小さい火の集合体であって、固定されたものではなく。
小さい火が生まれては死に、生まれては死に、そのことが果てしなく連鎖しあっている。
火は共にぶつかりあい、共に滋養を与えあうように育みあう。
炎はプロセスとして全体を維持し続けているのだな、と。
まるで、人間の体や生命世界を、劇場で演じているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


焚火をかこむ。
 火と炎。
 部分と全体。
 火の浄化、そして再生。


 火を見ているだけでもいろんなことが心に浮かんでは消えてゆく。祖先が見た映像が火を発火点としてレプレイされているのように。

 

 


村上春樹さんの短編「アイロンのある風景」(「神の子どもたちはみな踊る」(2000年)収録)も思い出していた。

焚火と、魂の再生の話だった。

 

 

村上春樹「アイロンのある風景」

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でもその物語の中で、何よりも重要だったのは、基本的にはその男が死を求めているという事実だった。彼女にはそれがわかった。うまく理由を説明することはできない。ただ最初から理解できたのだ。


この旅人はほんとうは死を求めている。それが自分にはふさわしい結末だと知っている。

それにもかかわらず、彼は全力を尽くして闘わなくてはならない。
生き残ることを目的として、圧倒的なるものを相手に闘わなくてはならないのだ。
順子を深いところで揺さぶったのは、物語の中心にあるそのような根源的ともいえる矛盾性だった。
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そこにある炎は、あらゆるものを黙々と受け入れ、呑み込み、赦していくみたいに見えた。
ほんとうの家族というのはきっとこういうものなのだろうと順子は思った。
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「予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をはるかに超えて生生しいものなんや。それが予感という行為の一番怖いとこなんや。」
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「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ている方の心次第で何にでも見える。」
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「火のほうも自由やないとあかん。
火が自由になるには、自由になる場所をうまいことこっちでこしらえたらなあかんねん。そしてそれは誰にでもできることやない。」

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