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2019年、明けましておめでとうございます。

December 31, 2018

2018年の年末は当直だー、緊急当番だー、子どもが高熱だー!!と。外に出ずに自宅で看病の日々でした。
元旦からやっとこどもの熱もよくなってきて、ご飯を食べるようになってきてすこし安心しました。

結果的に、2018年最後の投稿は、クリスマスの最中にジョンの命日を悼む投稿ということになったのでした。

→●Happy Christmas War Is Over(December 25, 2018)

 

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ということで、新年があけて、心が落ち着き、2019年の年賀状に向かえる現状。

ただ、新しい新年の気持ちで書けるという面もあります。2018年に書くのと、2019年に書くのとでは良くも悪くも意識の中に違う風が拭いていることでしょう。

 

 

 

年越しから年明けの一日は、子どもの看病を介して、ああやはり、人は命がけで生まれて生きているんだ、と生命の現象をただただ感じる日でもありました。

 

免疫という自分を守るシステムが誰にでも備わっていますが、この仕組みは一朝一夕にできたものではなく、わたしたちが細菌やウイルスという太古の生命群と、ぬきさしならない共生関係で地球の中を共に生きていて、命がけの営みの中で構築していくのだ、構築してきたのだ、と。

 

 

鼻水も咳も、免疫という自分を守る仕組みの一環。

 

鼻水は体の体液を利用して異物を排除しようとする。ただ、子どもは鼻水とうまく付き合うことはできない。自分でうまく排除できない。垂れてくる鼻水は睡眠中に呼吸苦が苦しくなるし、口にと垂れてきてもうまくとることができない。垂れ流しにするわけにもいかず、誰かが傍にいて鼻水を取る。皮膚もかぶれるが、なんとか皮膚も再生しようとし続ける。

 

咳も同じ。異物をなんとか外に追い出そうとする。こどもは、この咳という現象をどう思っているのだろうか。この生命反応は、ただただ苦しいとしか、呼吸を妨げるものとしか感じていないかもしれない。でも、咳があることで、気管支(場合によっては肺)にまで侵入してきた異物を排除することができるのだから、優れたシステムだ。

息をするときに、異物がむしろ体内に入り込んでくると判断した時に咳が出て追い出そうとするわけだが、本人は唐突に息ができないから苦しむ。

深い部分で生きる営みを支えるシステム。表面的には快適に生きることを妨げるように見えてしまう。

 


39度以上の熱が出ているとき、体内では異物と、自分の生命を守るシステムとが死闘を繰り返している。その死闘の激しさを発熱という形で間接的に受け取る。熱が出ると、脳はオーバーヒート状態となり、うまく機能しなくなる。その代わり、体という全体性が生命維持の主導権を握ることで、脳の不要なエネルギー消費を抑えて、無駄に動かないことを指令する。生命のシステムの全体像を守るため、体は、あの手この手を使って工夫し続けている。

 

こうした複雑なことが、日々の中でやり取りされている。

体内の現実と、わたしたちが日常の中で頭を悩ませ直面している現実とはかなり違いがある。

ただ、それぞれに必死で生き抜こうとしている面では同じようなことだ。

生命の世界では、異物と闘うのは「自分を守るため」だけに限定されていて、自分の外にまで出ていくことは決してしない。あくまでも、「自分を守るため」ときにだけ、闘うことは容認されている。

 

 

一人の人間が生まれ育つというのは、すでに大変なことだ。

あらゆるドラマが繰り広げられて、わたしたちは奥深くで静かに燃えている生命の火を絶やさないように生きている。

 

生きているだけで十分なのだ、と、子どもを見ていて思う。それ以上のことはない。

生命の火を灯し続けるだけでも、偉業であり、それは歴史的に宇宙的な時間の中で受け渡されてきているものだ。

 

 

年末と年始は、あらためて医療の原点を全身で追体験する日々となりました。

いろいろな予定をすべてキャンセルし、ケアとキュアに励んだのは自分にとっても深い気づきがたくさんありました。

 

子どもという弱い存在から、少しずつ生きていくための手段を獲得していく。そして大人へと変化していく。

 

その中で、食べる、という行為がいかに生きる営みを支えているか、ということ。

 

子どもが水分をとり、食べるようになるだけで、こんなにも感動するのかと思いましたが、食べる行為は生きることと直結しているからでしょう。

 

ここにも、深い生命で起きる食の現実と、外の世界で起きている食の現実との大きな違いをまざまざと感じさせられました。

わたしたちは何のために食べるのか?

 

 

2018年の大晦日に、ふと浮かんだ言葉は「ゆるす」という言葉。
いろいろなことがあっても、「ゆるす」。

 

個人レベルでも、社会レベルでも、憤りを感じることはあるものです。ニュースを見ているだけでも、心がざわつく事件も多いものです。

 

ただ、「ゆるす」と、感情がべったりと張り付いた執着がプチッと切れて、なんとなくふっと力と気が抜け、年越しにいい塩梅で意識の切り替えが起きました。

心の中でも、洋服を洗濯して汚れをゴシゴシ落とすように、部屋の床を雑巾で拭いて汚れをゴシゴシ落とすように、定期的なケアが必要です。

 

 

年末はパソコンに向かう時間がゼロだったので長くなりましたが。

 

2019年、明けましておめでとうございます。

 

こちらのブログにお越し頂ている方、ありがとうございます。

2019年は、創造をテーマに、1年をおくりたいと思っています。

 

自分のなかにあって、何か形として顕在化されるものをいまかいまかと求めているものに、ちゃんと生命の息吹を与え、芽吹かせていくこと。種から芽や花や果実が実るには、自分のなかに備わったものに、ちょっとした環境の条件を整えていけば、勝手に芽吹くのでしょう。

 

個人の花壇にある夢ではなく、夢を大きな大地で共有し、当たり前の現実として花咲かせていくこと。水をあたえ、太陽の光をあたえ、時には風雪から守りながら、育んでいくこと。


お互いがもっと深まりあいますように。
色んなミラクルが起きますように。

2019年もよろしくお願いします。(^^

 

 

 

 

 

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