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Glenn Gould Gathering@草月ホール

坂本龍一さんがキュレーションするGlenn Gould Gathering。

Liveへ足を運んだ。

予想を超えた濃密な空間だった。

改めてGlenn Gouldを悼む、祈りに満ちた時空間だった。

最新作「Async」を通過す瞬間もあり、現代音楽やクラシック音楽やノイズ音楽が通過する瞬間もあり、バッハがあり、グールドが弾くブラームスの間奏曲集のような瞑想的な時間もあり、あらゆる音楽の要素が過去と現代とを紡ぐように多様に共存していた場だった。

草月ホールという芸術の前衛を引っ張って見守ってきた舞台にふさわしい時間だった。

 

Glenn Gouldはもういない。

自分は彼の演奏が大好きだ。

CDはすべて持っているし、レコードも何十枚も持っている。

なぜこんなにも強く引き付けられるのだろう。

昔、優れた演奏は、その場で聞いて終わりだった。

残らないこと、消えてしまうこと、それは当たり前のことであった。

ただ、エジソンが蓄音機を発明した。

もともと、エジソンは死者が言葉を残すために蓄音機を作ったらしい。人が死の直前、最後のDeath Messageを残すために。金沢の蓄音機博物館でそうした記述を見た覚えがある。

エジソンはエジソンなりに、死のことを考えていたのだろう。

避けられない死を、情報として不死化させて乗り越えようとした。古代から、人類は常に不死化を望んでやまなかったから、人類は「情報」というフォーマットで部分的な不死化を実現したことになる。

そうした蓄音機は「声やことばを残す」よりも、「音楽を残す」形で独自に発展していくことになり、今がある。

当たり前のように享受している技術も、死を乗り越えるための技術だったと思うと、感慨深いものがある。

そんな録音機器に注目したのがGlenn Gouldだ。

彼はLiveで演奏することより、自分が思う最高の音楽をパッケージし保存し、すべての人に最高のパフォーマンスをこそ届けることを重視した。

間違えたと思ったら彼はその場でやり直したかったのでLiveに意義を感じなかったし、何十回でも何百回でもやり直そうとも、自分自身が納得する音色をピアノから引き出したいと切実に考えていた。(スタジオ録音だけではなく、彼が残しているLive演奏での録音も圧倒的に素晴らしいものばかりだ。)

そんなGlenn Gouldはもういない。

ただ、レコードやCDの録音媒体を通して、彼の息吹は今ここにいるかのように、濃密に、かつ親密に受け取ることができる。

 

「Glenn Gould Gathering」のキュレーションが坂本龍一さんだったから、果たしてどのような形で「Glenn Gould Gathering」が提示されるのか、興味津々だった。

草月ホールという素晴らしい場で行われたLiveは最高に刺激的で、それでいて濃密なもので、それでいて親密なもので、いい意味で予想を裏切るものだった。

Glenn Gouldがこの集会を見ていたら、のけぞって驚いたかもしれない。それほど、Glenn Gouldの本質を一度解体して、再構築したような世界だった。単になぞるのでも真似るのでもなく。なぜなら、Glenn Gouldはもういないのだから。

部分だけに注目すると違うようだが、全体として俯瞰してみると本質を共有している。

演奏者には、それぞれのGlenn Gould像がある。

それぞれが別の角度からGlenn Gouldを見続けている。

そうした異なる角度からのGlenn Gouldへの恋慕や敬意が、複雑に共鳴しあい、不思議な音空間を立ち上げていた。

高谷史郎さんの映像も予感に満ちていて、濃密な空間の醸成に大きく働きかけていた。

Glenn Gouldはもういない。

ただ、Glenn Gouldの足跡は陰画のようにくっきりと残っている。

彼がバッハを再解釈したように、Glenn Gouldも再解釈され続ける。

謎に満ちて余白が大きいほど、再解釈は多様になるし、深さと強度も増し続けるだろう。

Glenn Gouldを悼む、祈りに満ちた時空間だった。

帰りの頭の中では、どこかのスイッチが押されたように、グールドのゴールドベルク変奏曲の55年度版、81年度版が交互に流れてきて、不思議な気持ちになった。

村上春樹さんの対談本「みみずくは黄昏に飛びたつ」(新潮社)でも、グールドのことが触れらていたのを思い出した。

暗く深い地下に潜るとき、勇気をもって潜れるよう、そっと音楽で寄り添ってくれているのだろう。

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P103

(バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を聴き比べて)

でもグレン・グールドはそうじゃない。右手と左手が全然違うことをしている。

それぞれの手が自分のやりたいことをやっている。

P104

本人がどこまでわかっているかはわからないけど、とにかくそういう乖離の感覚は、乖離されながら統合されているという感覚は、人の心を強く引きつけます。何かしら本能的に。でも、危ないと いえば危ない。

(それはどのように危ない?)

一口では言えないけど、そこには何かしらのあやういものがある。でもそういうのは、地下に降りていく時には役に立つでしょうね。

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