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一条真也「唯葬論」(前編)

12/9(Sat)に「核と鎮魂 市民会議 第1回目の対話」@京都学園大学 京都太秦キャンパス みらいホールというシンポジウムがあり、セッション3「真に鎮魂するものは何か?」という所で講演をしました。

そこでは、核の問題を乗り越えるためには「新しい儀式の創造」が必要ではないか、という提案をしたのです。現代は儀式の本質を失ってしまっいました。「儀式的だ」とはNegativeな言葉(形骸化された儀式)として使われるようになってしまっています。

ただ、だからこそ、わたしたちは「核」の問題を人類史としても乗り越えることができていない、と自分は考えています。「理屈」の問題ではなく、ズルズルと引きずっているのは、わたしたちが「鎮魂の儀式」を適切に行えていないからではないだろうか。そういう話を人類史の視点から話しました。(その話はまた改めて書きたい)

そういう提案のInspirtionの大きな源となり、かつ大いに学ばせてもらったのが、一条真也さんの「儀式論」(600ページ!)や「唯葬論」(344ページ!)という空前絶後の本。

「唯葬論」は三五館から2015年7月に出版され、当時の自分は、あまりのすごさにのけぞって口があんぐりしました。当時のブログにも長大な感想を書いたのです。

三五館が倒産してしまい、この超名著も絶版になってしまうところでしたが、サンガが文庫版として復活させてくれたのです!サンガ、すごい!!!!

2017/12/25のクリスマス発売! 一条真也「唯葬論」サンガ文庫(2017/12/25 )

そして、この空前絶後の本に、自分も帯に文章を寄せています。こんなに光栄なことはありません!

文庫化記念として、2年ほど前に過去のブログに書いたものを再掲しますので、ぜひぜひ、文庫版もお読みください!!!

 

一条真也さんの「唯葬論」を読みました。 とんでもなくすごい本でした。 あまりのすごさに、ぶっ飛びました・・・。

これは時代を超えて読み継がれていく本ですね。

******************** <内容紹介> 人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えている。 本書で「唯葬論」というものを提唱したい――。

7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化した。 その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行なった。 つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのである。 終戦から70年を経た現代に横行する「直葬」や「0葬」に異議を唱え、すべての生者・死者のこころにエネルギーを与える、途方もない思想の誕生。 日本の思想史上の系譜、「唯幻論」「唯脳論」は、この「唯葬論」によって極まる!

宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論 ……18のキーワードから明らかになる、死と葬儀の真実! ********************

この本の紹介の18のキーワードだけを読んでも、いかにすごい本かが分かると思います。 宇宙から神話から哲学から宗教、芸術、臨死体験もあれば、幽霊や供養、交霊もあり、最後には葬儀の意義というところに着地する。 人類や自然の営みをすべて俯瞰的に包含したとんでもない本です。これは世界広しと言えども、一条さんしか書けません。

「いのち」と「むすび」(産霊=サンレー←一条さんの会社の名前!) 「むすび」から、「むすこ」と「むすめ」が生まれる。 神道では、「むすび」という働きが重要視されます。

自分も、「いのち」というものにこだわって思考しています。 本の冒頭に「いのち」に関することが書いてあるのは、象徴的です。 なぜなら、「葬」の問題は、「いのち」への関わり方に通じるからです。

・・・・・・

この本の冒頭では、それぞれの章のエッセンスが簡潔に示されていて極めて分かりやすいです。 時間のない人も、この本の冒頭だけでも読んでくださいね!

たとえば、芸術の起源について。

死の芸術こそが芸術の起源。 ARTの本質は地上の楽園から天上の楽園へ、人間の魂を導く手段である。

たとえば、供養の本質について。 供養の本質は、死者に死んでいることを理解させ成仏させることである。生者は死者によって支えられている。

冒頭のまとめだけを見ても、それぞれの章で何が書いてあるか分かるような親切な構成になっている。 流石だ!と思いました。

この本の内容は人類に関わることすべてです。 宇宙論 人間論 文明論 文化論 神話論 哲学論 芸術論 宗教論 他界論 臨死論 怪談論 幽霊論 死者論 先祖論 供養論 交霊論 悲嘆論 葬儀論 すごすぎる・・・。

それぞれの章で、なるほど!とうなったところをご紹介させて頂きます。 でも、絶対本を買って読んだ方がいいですよ。 きっと、何度も読み返せる本になると思います。

文章量の都合から、他界論までを前編で、臨死論以下を後編で分けて紹介することにしました。

■■■ 宇宙論 ■■■

宇宙から地球を見ると言う行為は神秘体験や臨死体験に通じる。

「宇宙船が重力をつきぬけて地球から宇宙へと出てゆくと言う現象は、「幽体離脱」すなわち「脱魂」なのである。」 と書いてありました。

まさにその通り。 人類の歴史は長いが、宇宙に飛び出したことは人類史の中でも特記すべきイベントです。

・「宇宙体験とは神秘体験であり、臨死体験である。重力からの脱出に基づく体験である。」 ・「無重力とはどういうことか。それは「上」とか「下」とか「縦」とか「横」といった概念がなくなることである。 「上」「下」「縦」「横」といった概念がなくなってしまうと、人間の内面はどうなるのか。 人間同士や国家の間に上下をつける感覚も消え、一種の「平等」や「平和」の意識を無理なく持つことができるのではないだろうか。」

確かに、宇宙という無重力では上も下も右も左もなく、そこに基準や物差しはなくなり、不安になると同時に自由になる。 誰かが作った序列や物差しから自由になるには、まだそんな自由の状態を獲得するほどには人類は時が満ちていない、ということなのだろうか。

<自由>の問題は個々人の問題もであります。 人類すべてが宇宙に行く日が来れば、すべての人類の意識は次のステップに向けて変わるのかもしれません。

満月のときに一条さんと<ムーサルトレター>という往復書簡を交わされている鎌田東二先生も紹介されてました。

鎌田東二先生によると 「重力からの超出は「ブッダ的智」であるという。 重力という神々から離脱し、自由になること、 つまり地球的なネットワーク(執着)を真に宇宙的なネットワーク(縁起の法)の中に解き放ち、その宇宙的相対性を結び直してゆくこと。 ブッダの智の道行きとは、こうした関係性の組み換え、脱属領化ではなかったか」

僕らは、色んなものを無意識に背負っている。ただ、その背負っていることすらに気付かず、そこに呪縛されて、自分から不自由になっている面も多いと思う。 その代表的で具体的なものが<重力>かもしれない。

宇宙飛行士であるエドガー・ミッチェルは、実際の宇宙空間で神性を感じ、直観智の存在を確信した。と言っている。

************* エドガー・ミッチェル『月面上の思索』 「地球へ帰還するあの3日の旅程で私が経験したことは、宇宙の“結合性(ユニティUnity)”という圧倒的な感覚にほかならない。 調和のエクスタシーについて書かれてきたことを、私は実際に感じた。

私の身体の分子と宇宙船自体の分子は、天空で燃えていた古代の星の一つ‐溶鉱炉‐で、いつでも使えるようにずっと前に生産されたのだという考えが私に起こった。 そして宇宙航海者としての私たちが存在していることも、また宇宙自体の存在も偶然ではなく、知的なプロセスが働いているという感覚があった。 私は宇宙を、ある意味で意識体として感知した。」 *************

古代の人は「月」を魂の再生の中継点と考えていたようです。

人類に普遍的な信仰は太陽と月。 太陽はいつも丸いが、月は満ちて欠け、常に変化します。 そうして満ち欠け、時間の経過と共に変わる月こそは人間の魂のシンボルとされたようです。

都会に住んでいると、なかなか空を見上げることが少なくなります。 ただ、古代人は高層ビルもなく、明かりも電気もありません。 常に雲や月や太陽を見て思考し、日々を過ごしていたのでしょう。 古代語では、「あま」は天(あま)であり、雨(あま)であり、海(あま)であり、すべてが一続きのものでした。 そういう心性でとらえると、「あま」を見上げて変化しながら回帰していく「月」という存在に、自分の内なる魂の投影を感じるのは自然なことなのかもしれません。

そういう古代の心性に戻ってみないと、過去のひとたちの気持ちに共感することはできないでしょう。 時を超えて交流するには、月や太陽という古代から続くシンボルとの交流が、その通路になるのだと思います。

■■■ 人間論 ■■■

哲学者のカッシーラーは、人間は「シンボリック・システム」という新たな機能を獲得することによって、ほかの動物と異なる「新次元の実在」の中に生きることになるのである。と述べている。

************* カッシーラー『人間』 「人間はただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる。 言語、神話、芸術、および宗教は、この宇宙の部分をなすものである。」 *************

この章では、<人間>というこの未知なる存在に関して、<人間>と距離をとって考察した色々な立場からの考察が紹介されていました。

ヘーゲルの弟子であり、マルクス・エンゲルスに影響を与えた哲学者、フォイエルバッハの『唯心論と唯物論』から。 (この方の文章も始めて読みました。一条さんの本は、ほんとうにいつも勉強になります・・・) ************* フォイエルバッハ『唯心論と唯物論』 「心-少なくとも唯心論の心-から説明され導き出されることができるのは、もっぱら死の後の生活であって、死の前の生活、言い換えれば実際の生活・現在の生活・すなわち思惟及び感覚ではない。 (そしてわれわれがここで問題にしているのはもっぱら唯心論のこことであってカントの懐疑的な心ではない。 ちょうどそれと同じように、人々は一般に唯心論の心からはただ神学へ推論することができるだけであって、人間学へ推論することができず、ただ神々を引き出しかつ作り出すことができるだけであって、人間たちを引き出し且つ作り出すことができない。)」 *************

この本は、<唯物論>から<唯心論>を批判している本です。 そのことが、<唯物論>の代表となるマルクス・エンゲルスに影響を与えたようです。 哲学の歴史も、どういう系譜で流れて受け継がれていったのか、ということは大切なことですね。 歴史からは、未来を思考する萌芽をたくさん受け取ることができます。 この本に関しては、一条さんのブログで詳細に紹介されています。 →●(一条真也の新ハートフル・ブログより)『唯心論と唯物論』(2015-04-03)

次に、「唯・・・論」の著作として、岸田秀さんの『唯幻論』が紹介されます。

心理学者の岸田秀さんは、人間を生物の中で<本能が壊れた>存在であるとしています。だからこそ人間は夢や幻を必要とする、と。 ************* 岸田秀『唯幻論』 「本能が壊れた動物である人間は、現実に適合できず、幻想を必要とする。人間とは幻想する動物である。」 「本能が壊れたために、人間は現実を見失い、人間存在と世界とのあいだに隙間ができ、その隙間に幻想群が発生した。」 *************

我々が見ているのは「幻」である、というのは、まるで仏教の思想のようですね。 仏教では私たちは五蘊(色・受・想・行・識)で再構築、再合成された世界を観察することしかできず、「幻(マーヤ)」としてしかこの現実を体験することはできない、という形で、常に自分の思考そのものをもう一つ上の次元から観察するような認識スタイルが推奨されています。

ただ、『唯幻論』の表現には、この現実を『幻』だとして、ややNegativeな意味付けがすでに含まれている印象を感じます。 そのことをもっとニュートラルに表現したのが養老孟司先生の『唯脳論』。 『幻』という現象を生みだす『脳』という母体にこそ、注目した。

解剖学者の養老孟司先生の本はほんとうに面白く、ほとんど全部の本を読んだ。 ちなみに、6年前に書いたものですが、この本は本当に面白かった。 「無思想の発見」養老孟司(2009-06-20)(ブログ「吾」より)

養老孟司先生は、岸田秀の『幻』そのもののを生みだす『脳』という母体に注目。 人類は、ある時期から「自然」の中に「人工物」を作りだして生きるようになった。「文明」というものはすべて自然の中にある人工物。 そんな人工物は、人類の『脳』が作り出した副産物で、そんな「脳化社会」を生きざるを得ない人類を『唯脳論』という形で、表現されました。

たしかに、今はテレビや本を見ていても、何か説得的な説明というのは、脳科学的な説明が多いような気がする。 セロトニン、オキシトシン、・・・などに説明を求めるスタイル。

脳科学の説明が妙に説得力を持つのは、脳を理解しているのも脳そのもの、ということにあるのかもしれません。 自己言及のパラドックスのように。

脳が生みだした<情報化社会>になるということは、必然的にそうなるのでしょう。

************* 養老孟司『唯脳論』 「伝統や文化、社会制度、言語もまた脳の産物である。 したがって、われわれはハード面でもソフト面でも、もはや脳の中にほとんど閉じ込められたと言っていい。 ヒトの歴史は、『自然の世界』に対する『脳の世界』の浸潤の歴史だった。 それをわれわれは進歩と呼んだのである。」 ************* 養老孟司、斎藤磐根『脳と墓〈1〉ヒトはなぜ埋葬するのか』 「死んでしまえば、単なる骨と蛋白と、脂肪の塊にすぎない死体は、交換されることで、それ自体価値を持つことになる。 だから大事にする。その価値を後に『魂』と呼ぶようになる。

あちら側の存在に対して、死者を送ったことを伝え、新しい生命を送り返してくれることを求めて、儀礼としての埋葬を執り行った。 埋葬は、ヒトを交換するために行うものとして始まったということになる。 人類は社会形成における一側面として、埋葬を行うようになったのである。 したがって、埋葬を行うから人間なのだとも言える。」 *************

養老孟司先生の視点は、いつも面白いです。

『唯脳論』の世界から、『脳と墓〈1〉ヒトはなぜ埋葬するのか』という書物では、「墓」という人類の文化的な営みも「脳」の観点を忘れないようにしながら語られています。

人が死んでしまう時、生から死へと送りだします。 その交換として死から生へとやってくるものがあり、自然界はそうして循環しているはずです。 そこにこそ、魂の問題や、儀礼・埋葬の儀式の発生を見ています。とても刺激的な視点だと思う。

実際、自然界は眼に見える世界でも眼に見えない世界でも、失われれば得るものがあり、得るものがあれば失われるものがあるようで、そうして循環しているようです。 魂や、儀礼・埋葬の儀式も、そういう循環の一つであると考えると、そこに生者と死者とのつながりがうまれるように思います。

■■■ 文明論 ■■■

人類学者マリノフスキーは 「生者が死者に抱く感情には、腐敗していく遺体に対する恐怖や嫌悪感と、死者への愛惜の念という、相反する二つの感情が併存している。」 と言っています。 死とは、本質的に相矛盾するものを統合的に提示するものだと思います。 その矛盾するものを提示された時、矛盾を矛盾のまま受け取る必要があります。

死に直面した人類が葬儀という儀式を生みました。 一条さんは、 「葬儀とは霊魂のコントロール技術なのである。」 と表現されています。

どうしようもない霊魂の問題を、なんとかしよう、と思い、その思いの数多の蓄積から、文明の中に葬儀は発生したのかもしれません。それは多くの思いが現実化した歴史でもあります。

■■■ 文化論 ■■■

************* 養老孟司、斎藤磐根『脳と墓〈1〉ヒトはなぜ埋葬するのか』 「ヒトの原初においては、他者の死を見て悲しみ、恐れるという感情は発達していない。 それは社会の発達、つまり脳の発達とともに育つものである。」 ************* 「シンボルとは、脳のある機能の帰結である。 どんな機能かと言えば、それはアナロジーである。 ヒトの脳にアナロジーが生じるのは、脳に剰余が生じたためである。 動物が生理的に必要な行動をしている間は、環境からの特定の刺激によって脳は働く。 ヒトでは、なぜか脳に余分ができてしまった。 環境からの刺激だけではなく、ヒトの脳内活動そのものが、脳の活動を引き起こす刺激に変化したらしい。

ところが脳内の回路は、ヒトも動物の場合と本質的には変わらない構築をしているはずである。 ヒトのほうが量だけ多いわけだから、『類比』すなわちアナロジーなる機能が発生するのである。」 ************* 「他人の死はきわめて具体的で、自分の死はどこまで行っても抽象的である。」 ************* 「そう考えると、ヒトの進化の過程で最初に起こった抽象化というのは、死に関したことではないかと思われる。 抽象化というのは、言い換えればシンボル能力である。 だから、抽象化能力、あるいはシンボル能力の具体的な入口は、実は『死』であったと言えるのではないか。 なぜなら、死とは抽象的であって具体的ではないのだから。」 ************* 「言語ができ、さらに抽象概念の素地が整ったところで、『死』をみつめたことから具体と抽象がつながり、墓はつくられた。 『初めに言葉ありき』である。」 *************

『唯脳論』の養老先生は、人類を特徴づける脳という存在と、そこで生まれた<シンボル(象徴)>や<アナロジー(類比)>という働きを述べます。 その能力を獲得したことと、<抽象化>という能力の獲得により、<死>の発見も起きたのではないかと。

脳は思考し哲学することも宗教も生みだしましたが、同時に悩みも生みだしました。脳にはいい面も悪い面もあります。 脳で受け入れがたい<死>という存在。ただ、同時に<死>を受け入れていくのも私たちの脳だとすれば、そこに何か儀式が生まれる余地があるのかもしれません。

クレタ島を最初に発見したアーサー・エヴァンスは、クノッソス宮殿を見て<明るい開放的な宮殿>であると感じ、そのように報告しました。 しかし、地質学者のヴンダーリヒは、クノッソス宮殿を別の場所として感じました。それは、クノッソス宮殿は<死者を葬った神殿である>と。

************* ハンス・ゲオルク・ヴンダーリヒ 『迷宮に死者は住む―クレタの秘密と西欧の目覚め(1975年)』 「古代ギリシャでは、一定の時間的感覚において繰り返される記念祭によって、重要な死者の生涯は一般世間の記憶の中に生き生きと保たれていた。

死者の生涯を舞台で、あるいは走路で再現するためにとりわけ劇場と闘技場を必要とした。

クレタのクノッソス宮殿は、最初の劇場建造と劇場フレスコ画によって、古代地中海域の死者の崇拝を克服するとともに、それに続く精神的発展の手掛かりをつくったことを証明している。」 *************

古代の建造物は、きっと多義的な意味があるのでしょう。 単純に人が生活する場というよりも、人びとが集う場として、そこには多義的な意味合いを持たせていたのだと思います。そして、それは私たちが忘れて失ってしまったものも含みます。

現代の僕らは、古代の香りがする場所から、古代を現代へと再発見していく必要があります。 クレタ島は、ギリシア神話のゼウスが生まれたところだとも言いますし、いづれ是非行ってその土地を体感してみたいところです。 以前、ギリシアに行ったことがありますが、とても素晴らしい場所でした。 ⇒○ギリシアの写真

■■■ 神話論 ■■■ ここでは、自分も大好きなキャンベルが引用されていました。 神話学者のキャンベルは、難解な本も多いのですが、この『神話の力』という一般向けの本はすこぶる読みやすく、しかも刺激的です。自分も何度も何度も読み直しました。いままで入手困難の本でしたが、文庫化されてよかった! キャンベル『神話の力』(2012-04-21)

************* キャンベル『神話の力』 「古代神話は精神と肉体を調和させるために作られたものです。 精神は奇妙なひとり歩きを初めて、肉体が欲しないものを求めたがる。 神話や儀式は精神を肉体に適合させ、生活方法を自然が定めた道に引き戻す手段です。」 ************* キャンベル『神話の力』 「埋葬が、見えざるところに向かって生命が継続するという理念と、また見える次元の裏に見えざる次元が存在し、それがどういうわけか見える次元を支えているという理念とも、いつも関わっていることはちゃんとわかっています。 あらゆる神話の基本的なテーマはそれだ、-見える次元を支えている見えざる次元が存在していることだ、-と、私は言いたいですね。」 *************

儀式の主要なテーマは、個人を自分自身の肉体よりも大きな形態構造と関連させることのよう。 そして、神話と言う形でその痕跡が静かに残る。 古代遺跡を少しずつ発掘していくように、神話という物語から、古代の思考を少しずつ発掘していきたいです。 自分も、暇さえあれば色々な国の神話を読んでいます。神話は日本神話もそうですが、ほんとうに奥が深いのです。

■■■ 哲学論 ■■■

紀元前四六九年頃アテナイに生まれたソクラテスは、「哲学は死の予行演習」と言いました。 人間の生を幸福にするためには何をすべきか、「善く生きる」とはどういうことか、そのことを考え続けたのがソクラテス。 ソクラテスは本を書いておらず、ソクラテスを尊敬するプラトンが、対話編という形で数多くの文章を残しています。

プラトンを受け継いだのは、二五〇年頃にプロティノスが展開したネオ・プラトニズム。 プラトン哲学とキリスト教思想とオルフェウス教やピタゴラス派の伝承と東方の影響を総合したもの。 この考えでは、<未来の生命>が重要視されています。

プロティノスの思想によると、 宇宙には人間の魂と、たいそう異なるさまざまな魂がたくさんあり、魂はいずれも神聖なる一者の無数の流出の一つを表す。 一者から離れた魂は「回心」の動きによって元の完全体に戻り、もう一度それと合体することもできる。自分自身の影である肉体の方へ身をかがめ、感覚世界と偽りの幸福との奴隷となることもある。

こうして、プロティノスの思考により、西洋哲学において「魂の運命」「罪」「救済」「贖罪」についての論理的にまとまった考えが初めて現れました。

偶然ちょっと前に読んだ井筒俊彦先生の『神秘哲学』 にも、「プロティノスの神秘哲学」は紹介されていました。 井筒俊彦『神秘哲学』(2015-08-04)

一条真也さんの「法則の法則」(2012-04-29)という超名著!!!にも、 ピタゴラス→プラトン→フィチーノ→コペルニクス の哲学の流れが紹介されていましたので、再掲します。

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ピタゴラス→プラトン→フィチーノ→コペルニクスの流れがある。

【ピタゴラス】(BC582-BC496年、古代ギリシア):大いなる知のためには、マテマタと呼ばれる四つの学問をしなければいけない。 「数の学」「形の学」「星の学」「調和の学」。それぞれ、算術、幾何学、天文学、音楽、に発展した。 ピタゴラス派の霊魂不滅説をプラトンが学ぶ。

【プラトン】(BC427-BC347年、古代ギリシア):真の世界としてのイデアの世界があり、この現実界は仮の世界に過ぎない。 世界は根元における「一者」を頂点として成立する。 「一者」は多様性と統一性であり、善であり完全である。 「一者」は全宇宙に偏在しており、人間は仮の住まいである肉体を離れて魂の目で宇宙を見るとき、その中に真の秩序としてのコスモスを見る。 このコスモスは人間の魂の中の内的宇宙でもあり、マクロコスモスとミクロコスモスは合一する。

魂は、故郷であるイデア界に帰還する。 天上的なプラトンに対して、地上的なアリストテレスが生まれるが、アリストテレスにも「第一動者」としての『神』は同じように想定されていた。

【マルシリオ・フィチーノ】(1433-1499、イタリア):ルネサンス期の15世紀、「普遍的自然宗教」を考えた。 プラトンを受け継ぎ発展させた。新プラトン主義と名乗り「太陽論」を書いた。 「太陽論」では、「一者」と天地創造を読み重ねると、「一者」とは「光」であり、具体的には「太陽」である。 太陽は、熱や光や愛を流出する存在。 世界を司る宇宙全体の霊を「世界霊」とした。

【コペルニクス】(1473-1543、ポーランド):フィチーノを受けて宇宙の中心を太陽とした。 2世紀にプトレオマイオスが大成させた「天動説」を12世紀後に「地動説」へと変えた。 それは、後世にコペルニクス的転回と言われる言葉が生まれるほど、認識がひっくり返る事件だった。

【ニュートン】(1642-1727、イギリス);ガリレオ(1564-1642)が亡くなった年に誕生。 1687年にプリンキピアで運動の3法則(=慣性の法則、運動の法則(万有引力は距離の2乗に比例する)、作用反作用の法則)。 ニュートンは敬虔なキリスト教徒であり、聖書解釈学者であり、錬金術師でもあった。 ちなみに、ニュートンの遺稿の半分を落札したのは経済学者のケインズ。 かなりの部分が錬金術の研究でケインズも驚いた。 ニュートンは、最初の物理学者であり、最後の魔術師だった。

自然科学へ。 =====================

■■■ 芸術論 ■■■ 「死の芸術」こそ芸術の起源。

デヴィッド・ルイス・ウィリアムズ『洞窟の中の心』によると、 ・現生人類の脳=心の構造 ・人類による社会の構成 ・シャーマニズムによる意識変容 などの活用が「芸術」誕生の鍵となると紹介されている。

葬礼芸術の二つの表現には、 1:感情の起伏をあらわにした劇場の生死 2:静謐で厳粛な生死。 の二つがあります。

それは、死に直面した人間の二つの精神のありようを表しています。 死に直面した時に最初に起こる恐怖と悲嘆。 ついで、死を定められた運命として受容しようとする精神。 これら二つの精神状況の反復の中で、死の受容へと向かいます。 芸術は、この死の受容過程を表現してきた総合的な営みです。

確かに、人類が最初に遭遇した<受け入れがたい>ものは『死』でしょう。 そこを知的にも理性的にも感情的にも乗り越えるために、人類は哲学や芸術を副産物として生みだしたのかもしれません。 すべては何らかの必要から生まれる実学なのだと思います。

孔子『論語』 「楽は同を統べ、礼は異を弁(わか)つ」

音楽は人を和同させ統一させる性質を持ち、礼は人々の間のけじめと区別を明らかにします。

孔子も、音楽などの芸術が調和を育むのに重要な位置付けがあると語っていました。 自分も、未来には調和のシンボルである芸術こそ、大きな意味を持つと思います。

■■■ 宗教論 ■■■

************* エリアーデ『世界宗教史』 「この死後の生はまったく『霊的なもの』、すなわち魂の死後の存続として考えられるが、 これは、夢に死者が現れることによって強められた信仰であろう。

しかし、死者が帰ってくるかもしれないことへの用心として解釈することも充分にできるような埋葬例もある。」 *************

「夢」は確かに不思議なもの。 そこに「死者」が登場してくると、別世界で生きているのではないか、と思うのも、思考の自然な流れかもしれません。

他の宗教でも、 仏教:輪廻転生、道教:不老長生、儒教:招魂再生 という形で表現されます。

・仏教は生死を超えて仏になろうとする ・道教は生死を一体化して仙人になろうとする ・儒教は生きている時には聖人になろうとし、死後は祖先祭祀により生の世界に回帰する。

それぞれの宗教は、必ず生や死、そして自分が何になろうとするのか、そういうことへの仮の回答が与えられるのだろう。 そして、最終的には一人一人がそれぞれの人生を完結させていく必要があるのです。

■■■ 他界論 ■■■

バビロニア人、エジプト人、ギリシャ人、インド人は、「天国に入る」とは人間が天体に移されることと考え、 インカ人やアメリカ・インディアンの一部は、太陽又は星に移住することと解釈したようです。

日本では、民族学者である谷川健一の『常世論』というすぐれた本があります。

自分も、 梅原猛「日本人の「あの世」観」(2012-12-30) の感想を書いたことがありますが、そこでも『常世論』は紹介させてもらいました。

「とこよ(常世)」は、「常夜」と書くこともある。 古来の日本人は、死んだら「永遠」の世界(常世(常夜))に行くと考えていたようです。

常世に対して、今生きているこの世界は「現世(うつしよ)」。 永遠である「常世(常夜)」を鏡に映した虚像が、この世の一時的な仮の宿、現世であると考えていました。

そして、1年に1回、その常世から常世神=マレビトがやってきて、人間に幸福をもたらすと古代の日本人は考えていたようです。 今でも、祭りの中にその痕跡が残っています。

************* 谷川健一『常世論』 「その祖霊はどこからくるのか。 漠然と海の彼方と信じている人達が大部分である。 それを古代の日本人はもっと明確に常世と呼んだのである。 祖霊の住む島が常世であり、また人が死んだら、その魂のいくところが常世と考えられていた。 常世は妣の国とも根の国とも称せられていた。 子孫にとっては亡き母の在す国、また万物の根源の国を海の彼方に描く心情は、常世という言葉が日用語として使用されなくなってからも、ずっと日本人の意識の深層を形成してきた」 ************* 「亡き母の在す国として思慕の対象である。 また万物根源の国として崇敬の対象である。 さらには五穀や果物の常熟している場所として渇望の対象である。

このように、常世という言葉には客観的認識を超えた現世の日本人のふくざつな憧憬がこめられているのである。 ここに、常世が他民族の他界観に比べてまぎれもない特徴をもつ点を指摘することができる」 *************

一条さんは、 <人類の究極の二大テーマは霊界と宇宙> と書いておられた。 これには、うなりました。 確かにその通り・・・。

結局、ここに行きつくような気がします。 というか、自分はここに行きついている気がしています。

目の前の局所に惑わされないように、自分の認識をもう一つ上の視点から見るように。 そうした全体像を見て、全体のコンステレーションを見て、局所局所の意味を再発見していく。

生を俯瞰してみると、<あの世(霊界・常世)>の視点から見るように。 この生きている世界を俯瞰してみると、<宇宙>の視点から地球を見るように。

行動はあくまでも局所的にしか始まりませんが、少なくとも思考は全人類的に全宇宙的におこないたい。

仏教での色即是空、空即是色、というものは、視点をZoom inし、Zoom Outすることを循環的に繰り返す事を述べていると思う。

視点をZoom inして現実世界を精いっぱい生きて、視点をZoom Outして<あの世(霊界・常世)>や<宇宙>の視点から現実を構想する。 そういうことを改めて思い出させてくれました。

・・・・・・・

この『唯総論』は、あまりにも重厚で内容が多岐にわたり、バームクーヘンのように何層にも美味しさが詰まっているので、一気に感想を書き切れません。 また時間がある時に、続きの感想書きます。。。。 (と言うのも、いまから登山に行かないといけないので、途中ですけど、とりあえずUpさせてくださいませ。)

いやはや、本当にすごい本です。 久しぶりに、本読みながらトリップしました・・・笑

(次回、後編に続く。)

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