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福島智「ぼくの命は言葉とともにある」

NHKのスイッチに福島智さんが出られていた。柳澤桂子さんとの対談。 →〇SWITCHインタビュー 達人達(たち)「福島智×柳澤桂子」

福島智さんは3歳で右目を、9歳で左目を失明され、14歳で右耳を、18歳で左耳を失聴された。光と音の世界を失った福島智さんは、自身が抱えていた問題をより普遍化させ、その研究により2008年より東京大学教授となった。盲ろう者として常勤の大学教員になったのは世界初のこと。 苦難を通りぬけた人の言葉は静謐でシンプルで、そこにユーモアがあった。スイッチの対談も、とても心を動かされる内容だった。

それをきっかけとして、以前読んだ福島智さんの「ぼくの命は言葉とともにある」致知出版社 (2015年)を再読した。

福島智さんは両目と両耳にハンデを持つ方なのですが、現役の東大先端研の教授でもあります。

福島さんは生まれながら目と耳が聞こえないわけではありません。 多感な青春時代に、少しずつ視力と聴力が失われていく事実を受け入れていく過程は、想像するだけで心が痛い。

SWITCHインタビューの対談でも、聞こえる状態と聞こえない状態がまだらに存在しているときこそが、一番つらかったとおっしゃっていました。 全く聞こえなくなった瞬間、むしろすっきりした、と。

その表情には、自分には伺い知れないほど深い場所を通過した人だからこその声の響きや重みを感じました。

この著作では、少しずつ光や音を失われていく過程をどう受け止めていったのか、というプロセスが生々しく書かれています。読んでいて自分の心がえぐられるような手ごたえがあります。

読み手は、自分が同じ立場になったら、果たしてどうなるのだろう、と自分と福島さんを重ね合わせながら、本書を読んでいくことになると思います。

 

目次 ●プロローグ 「盲ろう」の世界を生きるということ ●第一章 静かなる戦場で ●第二章 人間は自分たちが思っているほど強い存在ではない ●第三章 今この一瞬も戦闘状態、私の人生を支える命ある言葉 ●第四章 生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた ●第五章 再生を支えてくれた家族と友と、永遠なるものと ●第六章 盲ろう者の視点で考える幸福の姿

●プロローグ 「盲ろう」の世界を生きるということ

2001年に助教授(准教授)、2008年に東大先端研の教授になられましたが、2001年当時の先端研ニュースにご自身が書かれていた文章が紹介されていました。 少し長いですがそのまま引用します。

「「音」には色彩があり、きらめきがある。そして、常に「時間」とともに音は流れる。 「光」が一瞬の認識につながる感覚だとすれば、「音」は生きた感情と共存する感覚なのかもしれない。

宇宙空間を実感したことがある。 それも、地球の「夜の側」の空間のような、ほとんど光のささない真空の世界を。

「光」と「音」を失った高校生のころ、私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。

自分一人が空間の全てを覆いつくしてしまうような、狭くて暗く静かな「世界」。 ここはどこだろう。

(中略)

私は限定のない暗黒の真空の中で呻吟(しんぎん)していた。

美しい言葉に出会ったことがある。 全盲ろうの状態になって失意のうちに学友たちのもとに戻ったとき、一人の友人が私の掌に指先で書いてくれた。

「しさくは きみの ために ある」

私が直面した過酷な運命を目の当たりにして、私に残されたもの、そして新たなる意味を帯びて立ち現れたもの、すなわち「言葉と思索」の世界を、彼はさりげなく示してくれたのだった。

あれから二十年の時が流れた。私の手の上を、この間、実に多くの「言葉」が通り過ぎて行った。 指点字や手のひらへの文字で直接語りかけた人、通訳者を通して言葉を交わした相手・・・。 子どもたちがいた。若者がいた。女性がいて、男性がいた。障害を持つ人。 強くたくましい人、なのに、突然病に倒れた人がいた。さまざまな国の人、肌の色の人がいた。

そして、そのうちの少なからぬ人たちが、今はもうこの世にいない。

「光」が認識につながり、「音」が感情につながるとすれば、「言葉」は魂と結びつく働きをするのだと思う。 私が幽閉された「暗黒の真空」から私を解放してくれたものが「言葉」であり、私の魂に命を吹き込んでくれたものも「言葉」だった。

福島さんが音と光を失い絶望の淵にいた時、友人に指で書かれた言葉を受け取ります。

「しさくは きみの ために ある」

そのシンプルな言葉に、一つの指針を得るのです。 そして「言葉(コトバ)」のもつ力や本質を、当事者研究という形で自分で自分自身を探求し研究するきっかけになります。

(友人への手紙) 「この苦渋の日々が俺の人生の中で何か意義のある時間であり、俺の未来を光らせるための土台として、神があえて与えたもうたものであることを信じよう。 信仰なき今の俺にとってできることは、ただそれだけだ。

俺にもし使命というものが、生きる上での使命というものがあるとすれば、それは果たせねばならない。 そしてそれをなすことが必要ならば、この苦しみのときをくぐらねばならぬだろう。」

苦悩の中で、福島さんは「これは神の試練である」と、自分に言い聞かせます。 (後に、このことは福島さんの中で「自分が生きる伸びるための自分への必死の説得だった」と語られるわけですが。。。)

「盲ろうの世界は宇宙空間に一人だけで漂っているような状態だと言いました。

しかし、それは単に見えない聞こえないという状況を説明しているだけでなく、 自分の存在さえも見失い、認識できなくなるような状況で生きていることをも意味しています。

周囲の世界が徐々に遠のいていき、自分がこの世界から消えていってしまうように感じられるのです。

その真空に浮かんだ私をつなぎとめ、確かに存在していると実感させてくれるのが他者の存在であり、他者とのコミュニケーションです。 つまり、他者に対して照射され、そこから反射して戻ってくる「コミュニケーションという光」を受け止めることによって初めて、自分の存在を実感することができる。 他者とのかかわりが自分の存在を確かめる唯一の方法だ、ということです。」

精神の危機的状況を乗り越えた福島さんは、そこで「自分」という存在と向き合う事になります。 そして、「自分」を深く「しさく(思索)」した時に、「他者」という存在に全く別の意味を感じるようになりました。

他者の存在や他者とのコミュニケーションという光により照らされるのが「自分」という存在なのだ、と。

仏教でいう<縁起>、ティックナットハンの<inter-being(相互依存的存在)>、日本人の<おかげさま>、という発想も、自分以外の他者との関係性や全体性の中で自分を考えていくことだと思います。 他者とのコミュニケーションや対話により、はじめて自分という存在は立ち現れるのだと思います。 ドーナツの穴のように。

「盲ろうとなって私がぶつかった第一の壁は、コミュニケーション手段の確保でした。

第二の壁は、そのコミュニケーション手段を実際に用いて、持続的に会話する相手をつくること。つまり、他者とのコミュニケーション関係を形成することです。

そして、第三の壁は、周囲の「コミュニケーション状況」に私が能動的に参加できるようにすること。 いわば、「開かれたコミュニケーション空間」を私の周囲に生みだすことだったのです。

Mさんが始めたやり方は、指点字通訳の原則として、その後定着していきました。 そして、このように開かれたコミュニケーションが保障された時、私は盲ろうになって初めて、「自分は世界の中にいる」と実感できたのでした。 こうして私の新たな人生が始まりました。」

福島さんは、 第1の壁<コミュニケーション手段の確保>、 第2の壁<他者とのコミュニケーション関係を形成すること>、 と進み、その先に 第3の壁<周囲の「コミュニケーション状況」に能動的に参加できないと他者とコミュニケーションしているとは言えない>にもぶち当たりました。

そうでないと、閉鎖的な空間だけでの交流に終わってしまう、と。

対話は、自分と相手の二つの要素だけで構成しているわけではなく、場の全体が作り上げるもの。 場が開かれていれば、対話の内容も開かれたものになっていくのだと思います。

●静かなる戦場で

強制収容所に強制連行されたフランクルという心理学者を例に挙げて、生と死の極限状態、人間の尊厳が失われそうになる極限状態を経た人だけが紡ぎだされる言葉が紹介されます。

フランクルの『死と愛』には、生きる上で実現する価値には三つの段階が記されています。

・創造価値: 世界に何かを与える行為に伴う価値 ・体験価値: 想像できなくとも、美しい風景に感動する、といった行為に伴う価値 ・態度価値: 生命が大いなる苦悩に直面した時にも、その苦悩にどう対処するかで態度価値は実現される。

創造と体験価値を経て、極限の苦悩にも生きていく態度価値が求められるのだ、と。

 

フランクル『死と愛』 「人間が彼の生命の制限に対していかなる態度をとるかということの中に実現化されるような第三の重要な価値群が存在するのである。 その可能性の狭隘化に対して人間がいかなる態度をとるかというまさにそのことの中に、 新しい独自な価値の領域が開かれるのであり、それは確実に最高の価値にすら属するのである」

 

フランクル『死と愛』 「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。 そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪う事ができるが、 たった一つ、与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。 実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。」

 

フランクル『意味への意志』 「絶望=苦悩マイナス意味。 つまり、絶望とは意味なき苦脳である。」

 

強制収容所を生き残ったフランクルの言葉をなぞり、福島さんはこの語られます。

福島智『ぼくの命は言葉とともにある』 「自分のしんどさには意味があるし、自分には果たすべき使命があるという考え方は、自己崩壊から逃れるための、苦悩の中での私なりのサバイバル戦略だったのだろうと思います。 つまり、いかに生き延びるかを探っていたのです。

道徳的・倫理的な発想から出たものではなく、また信仰者として特定の宗教の神にお願いするような感じでもなく、どうすれば自分が納得できるかを考えた結果です。

自分が納得すること、つまり自分の状態に「意味」を見出すことが救いになるのだと思います。 人にとって意味を持つと言う事は、生きていく上でとても重要なものなのです。」

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人は無意味には死なないし、死のうとも思いません。

無意味に死ぬことを積極的に求める人は一人もいないはずです。 おそらく自殺する人であっても、その人なりの何かしらの意味を見出したのでしょう。

死であっても意味が必要なのですから、生きるうえでは絶対に意味が欠かせません。 また、生きる意味を見いだせれば、生きるという行為は間違いなく輝くはずです。

フランクルと状況は違えども、絶望から希望を持って立ち直る心的プロセスには共通性があります。 そうした経験談は、僕らが突然の悲劇に遭遇されて打ちのめされた時、始めて意味が立ち上がってくるものなのです。

人間は全く同じ経験をすることはできません。違う人生を行きています。

ただ、その体験の深さにおいて、違う経験であっても共鳴・共感できると思います。 体験の深さや体験の質や量により、共鳴・共感できる範囲は拡張されていきます。

読書中にも、福島さんが絶望の場所から少しずつ立ち上がっていくプロセスを追体験している不思議な感覚に陥りました。

●第二章 人間は自分たちが思っているほど強い存在ではない

福島智『ぼくの命は言葉とともにある』より 自分の中にある「生きる意味」とか「宝」といったものに気付ける人はどういう人なのでしょうか。 はっきりとは言えませんが、一つの条件は「自分の弱さをとことん知っている人」ではないかと思います。

 

神谷美恵子『生きがいについて』 「人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。 野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場から見たら存在理由があるに違いない。

自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にも認められないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。 もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。 そもそも宇宙のなかで、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。」

 

神谷美恵子さんの文章を紹介しながら、自分の存在の意味を再発見していくことは、他者の意味や人類の意味への考察にまでつながっている。

神谷美恵子さんの文章には、人生の切実さ、が感じられます。 その切実さと真摯さにおいて、福島さんは共鳴しているのでしょう。

本著作では色々な方の声がポリフォニーのように響き合います。 福島さんは一文字一文字刻むだけでも大変なのではないかと察するのですが、これだけの膨大な著作を読み込み、そして縦横無尽に引用される力に驚きます。

 

立花隆『宇宙からの帰還』より 「私の目の下では、ちょうど、第三次中東戦争が行われていた。 人間同士が殺し合うより前にもっとしなければならないことがある。」(アポロ9号、手話イカート)

 

「はじめはその美しさ、生命感に目を奪われていたが、やがて、その弱弱しさ、もろさを感じるようになる。・・・・ 宇宙の暗黒の中の小さな青い宝石。それが地球だ。 ・・・・ かくも無力で弱い存在が宇宙の中で生きているということ。 これこそ神の恩寵だということが、何の説明もなしに実感できるのだ。」(アポロ15号、アーウィン)

 

福島さんは病の体験を経て、ものの見方の改変を余儀なくされました。 視点が変わる事で、世界は違う様相を私たちに提示します。

宇宙飛行士により人類が宇宙からの視点を得たことは、地球を俯瞰して宇宙空間に浮かぶ一つの小さくか弱い星としての視点を得たことと同義なのです。

生きている時の経験は有限ですが、本という媒体を介して様々な視点を追体験できるのは素晴らしい。 それが読書の醍醐味でもあります。

●第三章 今この一瞬も戦闘状態、私の人生を支える命ある言葉

福島智『ぼくの命は言葉とともにある』より

障害者は行動の自由やコミュニケーションの自由が奪われているという意味で、 言わば「目に見えない透明な壁に囲まれた刑務所」に「無実の罪」で収監されている存在だと持捉えることができると思います。

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私自身が盲ろう者になって強く感じたことがもう一つあります。 それは、コミュニケーションは独力では成立しないものだという事です。 他者の働きかけがあって、初めてコミュニケーションは成り立つのです。

福島さんは、ひとり孤高に「しさく(思索)」し続けます。与えられた使命・天命のように。

コミュニケーションで大切なこと、こちらから能動的な働きかけだけではなく、他者からの受け身の働きかけで「出会い」が起こることで成立するものだ、ということ。 こういう「しさく(思索)」の探求が、東京大学で福島研究室が行っているバリアフリープロジェクトへともつながっているのです。

「コミュニケーションによる他者の認識が、自己の存在の実感につながる。」 ---------------

「光そのものには明るさはなく、光を反射する「何か」があって、初めて光は明るさを生みだす。」

SNSやFb、Youtube、近代に発達したあらゆるメディアは、こうしたコミュニケーションを求めた結果生まれたものだと思います。

「わたし」が「わたし」に書いたものは閉じられたものですが、「わたし」が「あなた」を意識した瞬間、それは開かれたものとなり、目的や意味が変容するのは不思議なことです。

福島さんは点字であらゆる古典を読まれていて驚きます。 ドストエフスキー、パウロ・フレイレ、マルティン・ブーバーの引用までも!

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 「実行的な愛は、空想の愛に比べてこわくなるほど峻烈なものですよ。」

 

パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』 「対話とは出合いであり、対話者同士の省察と行動がそこでひとつに結びついて、変革し人間化すべき世界へと向かう」

 

マルティン・ブーバー『我と汝・対話』 「<われ>とは<なんじ>と関係に入ることによって<われ>となる。<われ>となることによってわたしは、<なんじ>と語りかけるようになる。すべての真の生とは出合いである。」

 

福島智『ぼくの命は言葉とともにある』より

指先の宇宙 

ぼくが光と音を失ったとき、 そこには言葉がなかった。 そして世界がなかった。

ぼくは闇と静寂の中でただ一人、 言葉をなくして座っていた。

ぼくの指にきみの指がふれたとき、 そこに言葉が生まれた。

言葉は光をはなちメロディを取り戻した。

ぼくが指先を通してきみとコミュニケートするとき、 そこに新たな宇宙が生まれ、 ぼくは再び世界を発見した。

コミュニケーションはぼくの命。 ぼくの命はいつも言葉とともにある。

福島さんの詩。 素敵です。 短い中に、闇や静寂へと光がさーっと差し込んだ瞬間が、映像として浮かぶようです。

●第四章 生きる力と勇気の多くを、読書が与えてくれた

『クマのプーさん』が想像の世界にいざなってくれた、として、ファンタジーの深い効用を語られます。 同時に、<小松左京のSF的発想に生きる力をもらう。>とも。

福島さんは小松左京の「果てしなき流れの果てに」がお気に入りのようで、自分も大好きな著作! 一度、書評を書こうとして挫折したような覚えがあります。

それほど、この本は迷宮のようにとらえどころのない不思議な本です。

こういう時代こそSFは再発見されていいと思います。そこに精神の自由と、未来への透徹したVisionがあります。 ⇒●小松左京「ゴルディアスの結び目」(2013-06-04)

(以前ブログに書いた感想です)

自由な発想とユーモアが、SFと落語に共通するエッセンス。

落語が「笑いが生きる力になる」ということを学び、 アポロ13号とロビンソン・クルーソーに極限状況をいかに生きるかを学んだ、とも。

福島智『ぼくの命は言葉とともにある』より

SF的な発想あるいは落語的な発想、それは言ってみれば「発想の転換の発想」が好きなのです。 SF的発想とは、たとえば、今、自分の目の前にある現実を、唯一絶対的な固定的な現実とは見なさないということです。 (中略) そして、落語的なユーモアの感覚、人生やものごとを面白がるというスタンスです。

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私が北方謙三作品から学んだことは、「筋を通した生き方」であり、「たとえ弱くても、力がなくても、ただ一人で、その場に立ち尽くすこと、立ち続けることの意味」だと思います。 また、死者が、生きているものの心の中で、いっそう強く生き続けるのだというメッセージです。 こうしたメッセージは、生きることの切なさと悲しさ、そして美しさを伴って私の心に染みました。

●第五章 再生を支えてくれた家族と友と、永遠なるものと

カール・ヤスパースが『哲学入門』の中で、「哲学」の起こりとして書いていることを引用されます。

 

カール・ヤスパース『哲学入門』 「人間が自己の挫折をどのように経験するかということが、その人間がいかなるものとなるかということを立証するのであります。」

 

カール・ヤスパース『哲学入門』 「限界状況で暗号としての超越者の声を聞く。」

 

絶望のように思える限界状況から、どれだけ深く内省して自分の中で思索し続け、そこから立ち上がる力を得るか、というプロセスと共通しています。

個人の内的な深いプロセスを通過した人は、すべて「生きた哲学」を体験している。

あとは、その圧倒的な体験をいかに言葉でうまく表現できるか、ということが哲学へと昇華されていくかどうかの分かれ道なのでしょう。

ただ、たとえ言語化できなくてもそれが血肉化されていれば、生きていく上で強い支えとなるでしょう。

●第六章 盲ろう者の視点で考える幸福の姿

 

吉本隆明『アエラ(2005年1月17日号)』 「わたしたちはまえを向いて生きているんですが、 幸福というのは、近い将来を見つめる視線にあるのではなく、 どこか現在自分が生きていることをうしろから見ている視線のなかに、ふくまれているような気がするんです。」

 

最後に、吉本隆明さんの言葉が紹介されていました。

自分という存在は過去にも現在にも未来にも幅を持って存在している。 前のめりになる自分を、そっと後ろから見守るもう一人の自分の存在。そうして均衡と調和をとる。

自分のいろんな体験や行動自体を、暖かく見守るような視線で包括的に俯瞰的にとらえることができるようになれば、心が不安定に揺れ動いても問題なく、安心や幸福へとつながるのかもしれません。

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この本では、福島さん自身にしか体験できない事が数多く語られ、時には読み手に痛みが伝わってくるほど。

ただ、福島さんも一人だけで絶望から立ち上がったわけではありません。

様々な先人の本から、思索から、言葉から、多くの勇気と力を得て、その先人の愛の力によって引き上げられたような気がするのです。

それは読書という行為ならではの体験。 一対一。

読書は、どんな偉人でも故人でも、マンツーマンの家庭教師のように自分に語りかけてくれます。

この本を読んでいるときも、福島さんの暖かな懐に包まれながら、一対一で向き合っているような感覚で本を読み進めたのでした。 読書も音楽も、そういう体験だと思います。

是非お読みください。

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