雪と意識状態の記憶

軽井沢の雪は1日だけだった。そこまでの大雪にならないのは山肌で囲まれた絶妙な地形なのだろう。

空間が白で埋め尽くされ、雪が空間のクッションとなり、音が消えていくので、空間変容のプロセスが面白く。













1月に空間が雪で埋め尽くされるとき、センター試験を思い出す。 自分が浪人生の時も大雪だった。 集合的意識と何か関係があるのかもしれない(人間集団のエネルギーと自然エネルギーの照応として)。



自分は浪人時代、勉強しすぎて極まっていたので、東大受験の時も問題がすべて解ける気がしていた。 というのも、ものすごく集中していくと、問題製作者の気持ちと同期していくような意識状態になっていき、問題をつくった人の気持ちが手に取るようにわかるので、問題が簡単に解ける。 当時は、問題製作者の部屋、椅子、文房具、、、そういうものまで明確にイメージされていたのだった。


別の言い方をすれば、問題を解く側ではなく、問題を作る側の立場になって問題を解けば、それはすでに問題ではなくなるのだ。 これは禅問答のようだが、受験の奥義だと自分は思っていた。ただ、周りにはあまり理解してもらえなかった。そのころから、人間の「意識状態」に関して強い関心を持ち始めた気がする。意識を集中するとか、ほどくとか、そうい

うことに関して。



いづれにせよ、人間が作った問題は、必ず解答がある。 それに対して、自然が作った問題は、ひとつの解答は存在しない。ただ、すくなくとも自然そのものの立場に立たないと、問題は永久に解決しないのではなかろうか。


雪を子どもと眺めながら(というよりも、雪がやってくる謎の源である天を眺めながら)、受験生時代、自分の意識状態が極限まで極まった時をふと思い返した。

記憶はあらゆる場所からメビウスの輪のようにつながっているのだ。