辻信一「弱虫でいいんだよ」(2015年、ちくまプリマー新書)
辻信一さんの「弱虫でいいんだよ」(2015年、ちくまプリマー新書)を再読しました。
「弱さ」の「強さ」を縦糸として書かれた素晴らしい本です。
未来の社会の提案としても、色々と示唆に富む素晴らしい本でした。
ちくまプリマー新書は子供向けの本なので、子供相手に語られるように書かれている本が多く、とても読みやすい本が多いのです。
岩波文庫は読むのにちょっとした技術と経験が必要ですが、岩波少年文庫が読みやすい良書が多いように。
以前も、辻信一さんを中心としてなされている「ゆっくり小学校」に、保健?生物?の先生として呼んでいただいたのです。芸術と教育が一体化したあり方に未来の学校の在り方をみました。
→〇ゆっくり小学校
この本では、「弱さ」の色々な側面に光を当てている本です。
「弱さ」が悪い、「強さ」がいい、というのは一方的な価値判断で、よいか悪いかは時と場合によります。価値判断は他との関係性で異なるものです。
大きいことがよいとは限らないし、小さいことがよいとはかぎらない。
そこには、強弱を量的なものとしてとらえる変な傾向がある、と、辻さんは語られます。
「弱さ」の中に質を見出して、そこにこそ今の時代を突破する鍵があるとして、色々な角度から「弱さ」が持つ「強さ」を立体的にとりあげています。
長田弘さんの「ねむりのもりのはなし」という詩に、「あべこべのくに」のことが出てきます。
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長田弘『ねむりのもりのはなし』
いまはむかし あるところに
あべこべの くにがあったんだ
はれたひは どし ゃぶりで
あめのひは からりとはれていた
そらには きのねっこ
つちのなかに ほし
とおくは とってもちかくって
ちかくが とってもとおかった
うつくしいものが みにくい
みにくいものが うつくしい
わらうときには おこるんだ
おこるときには わらうんだ
みるときには めをつぶる
めをあけても なにもみえない
あたまは じめんにくっつけて
あしで かんがえなくちゃいけない
きのない もりでは
はねをなくした てんしを
てんしをなくした
はねが さがしていた
はなが さけんでいた
ひとは だまっていた
ことばに いみがなかった
いみには ことばがなかった
つよいのは もろい
もろいのが つよい
ただしいは まちがっていて
まちがいが ただしかった
うそが ほんとのことで
ほんとのことが うそだった
あべこべの くにがあったんだ
いまはむかし あるところに
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長田弘さんの詩にあるように、「弱さ」は「強さ」を内包していて、「強さ」も「弱さ」を内包しています。
そういうことを思い出しさえれば、そこに絶対的な価値基準をはめ込む必要はないのでしょう。
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ガンジー
「良きことはカタツムリのようにゆっくり進む。
だから、自分のためでなく人々のために働く人は、いたすらに急がない。
なぜなら、人々が良きことを受け入れるには、多くの時間が必要なことを知っているからだ。」
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ダーウィンに「適者生存」という言葉があります。
「適者」は、いつのまにか「強者」と混同されてしまい意味が変わり、「弱肉強食」を都合よく正当化する言葉として使われてしまいました。
ただ、もともと「適者」とは、環境に最も適応したもの、という意味。
過酷で転変する環境の中で適応できた生き物こそが、生き残っています。ヒトもそのひとつの種です。
生態学者の稲垣栄洋(ひでひろ)さんは、「生物に重要なことは生き残ることだ」とおっしゃります。
だから、
「強いものが生き残る」のではなく、
「生き残るものが強い」のです。
この乱世をなんとか生きている人は、みんな強い。
ただ生きているだけで、尊敬に値するのです。
生きているだけでいい。
この人生に絶望している方に、「生きているだけでいいので、それだけで自信もってください」と、強く言いたいです。
生態学者の稲垣さんは、こういう例も紹介されています。
「タカが十匹のスズメを、スズメが十匹のカマキリを、カマキリが十匹のバッタを食べている」とすると、一匹のタカが生きていくには千匹ものバッタが必要になります。
タカは強いようですが、千匹のバッタに依存していると考えると、ある意味では弱く脆いともいえます。
人間もそうでしょう。
人間が食べている食べ物は、動物でも植物でも、数えきれない食物連鎖のつながりの中で食事をしていて、それはそのつながりすべてを食事しているのと同じようなこと。
それだけ多くのいのちが重なり合ってはじめて人間のいのちが日々成立している、ということを忘れてはいけないと思います。
「いただきます」という言葉にも、そういう食物連鎖を含めた多数のいのちへの祈りの言葉が、込められています。
(アップダウン扮するぬかづけマンが作成したアニメもどうぞご覧ください。)
→〇第2話『いただきますに込められた想い』
古来から伝統的に行われてきた狩猟は、「贈与交換」の関係としてとらえられていました。
地元の先住民のお話では、
「もし動物が自らをささげたなら、人は感謝の祈りを捧げ、与えられた肉の贈り物を受け取らねばらない。
動物の苦しみを考えることは、贈り物にけちをつけることであり、そもそも、その動物がその人に、自身をささげるべきであったかどうかについて、疑いの目を向けることだ。」
と教えられるそうです。
動物世界から与えられた食べ物としての生命は、大いなる自然の世界に人間もお返しする必要があります。
生命の絶妙なバランスをいい形で調整するために、ヒトはこの大自然から役割を与えられているように思います。
■
辻さんは、ナマケモノのあり方にひかれ、「ナマケモノ倶楽部」という活動もされています。
ナマケモノは素敵なお顔。
かすかなほほえみがあります。菩薩のよう。
ナマケモノのスローで優雅で高貴な生き方に、自分も多くの示唆を受けます。
動物性と植物性の調和した生き方として。
(Wikiより)
辻さんがエクアドルに行ったとき、そこでは森林伐採が行われ、森がどんどん消えていました。
油をとるヤシの農園をつくるためです。
そこでは動きののろいミツユビ・ナマケモノが多数捕まえられていて、そのとらわれの身の姿を見ても何もできなかった、という無力を感じられたようです。
そうしたお互いの、「弱さ」を通じてナマケモノと出会った経験が、辻さんの活動を支えていて、この本の縦糸をなしています。
ナマケモノの英語名であるSlothも、怠惰やものぐさを意味する英語。
ナマケモノ(Sloth)は、生涯のほとんどを樹にぶら下がって過ごします。
1日の4分の3以上を木の枝にぶら下がり過ごすようです。
食事、睡眠、交尾、出産、、、すべてを樹にぶら下がったまま行うという曲芸!
主食は葉や新芽などの植物。
自分の毛に生えた苔や藻類も食用とするようです。
自分の体自身が畑?!
体まるごと共生しているというべきでしょうか。
ナマケモノが行う命がけの排便の行為の意味に、感動しました。
ナマケモノは、週に1回程度、樹から降りてきて地上で排便します。
ナマケモノは動きがゆっくりですので、地上に降りてくると大型の陸上生物に殺される危険性があります。
だからこそ安全な樹上で暮らしているのですが、なぜあえて木の根元にまで出歩き、危険を冒して地上で排泄行為をするのか?
自分の食糧である葉っぱを供給してくれる木の根元に糞をすることで、その栄養を同じ木に返そうとしているのだそうです。
自分を育ててくれた木を支え育てる。その木に自分も支えられる。
これは究極の循環型生活でしょう。
人類も、地球から受けている恩恵をお返しし、うまく循環していく社会を取り戻す必要があります。(日本でも江戸時代は循環型社会がかなり完成していたらしい) その模範やモデルは、今生きている動物や植物の共生の知恵から学べます。
自分を育ててくれた木にお返しするため、長い長い時間をかけて命がけで地上で排便をする。そして、また人生のほとんどを過ごす木の上に戻る。
なんとも素晴らしい話ではないですか。
ナマケモノは、1日にほんの8gの植物だけを摂取して暮らしているそうです。
ヒトなどの一般的な哺乳類は恒温動物で体温は一定ですが、ナマケモノは哺乳類では珍しく変温動物。
恒温動物で体温を一定に保つためにエネルギーが必要となります。
変温動物では、外の温度に合わせて体温を変化させ、不要なエネルギー消費を抑えています。それこそがナマケモノの生き方なのです。
ナマケモノはほとんど動きません。
実際、物理的にも筋肉の量が少なく、そのことが動きが遅いことの理由でもあります。
ナマケモノは動物でありながら、まるで植物のようなライフタイル。
自分の毛の中に苔や藻類が生えていて、共生していたり、時にはそれ自体を食べてみたりしているところも、動物世界と植物世界が調和した稀有な生き物といえるでしょう。
こうした植物原理と動物原理が調和した生き物こそ、僕らも学ぶことが多いです。
ブラジルのある部族は、ナマケモノに「空を支える」という意味の名前を与えています。
実際、ナマケモノは変温動物ですので、温度変化を最小限にしてエネルギー消費を避けるために、太陽が出ているときは太陽を一身に浴びています。
エクアドルのシャーマンは、現地の言葉でナマケモノを「インティジャーマ」(インティ=太陽+ジャーマ=光線)と呼ぶらしいのです。
太陽を一身に受ける姿は「太陽光線(インティジャーマ)」と調和したあり方そのもので、生きざまや佇まいが「空を支える」ように見えるのは、なんとも素晴らしいあり方ではないでしょうか。
仏教では、お金も何もなくても、誰でも出来るお布施として、和顔施(わがんせ)というものがあります。
今日もナマケモノは、菩薩のように笑顔でニコニコ笑っているかのようです。
<参考動画>
〇Puma vs Sloth ナマケモノvsピューマ
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競争が悪いわけではない、と、辻さんは書かれます。
そうではなく、競争を社会の基本原理とみなす「競争原理主義」がよくないのです。
人生の中心に「競争」を置くのは無理がある。
人間の社会で、みんなが同じ到達点に向かうことはあり得ないからです。
ラグビーでは、試合終了のときに「ノーサイド」という号令がなされますが、勝ち負けを競うのは試合中という一時的なもので、試合が終われば、敵も味方もない(ノーサイド)、という宣言のこと。
勝ち負けは、ゲーム開始から終了 までの枠内の約束事の結果にすぎません。
ラグビーも含め、「競争」をする場では、時間的な空間的な「囲い」が必要です。
そうした限定的な囲いの中でしか、競争は成立しません。
ただ、今は社会全体が競争に巻き込まれていて、その「囲い」の中に全員が無理やり入れ込まれています。
そのことこそが、グローバリズムの欠点であり限界なのでしょう。
そうした動きに「弱い」ものの声は圧殺されてしまいそうになります。
競争はある限定された囲いの中で行うからこそ、意味があるもの。
比較の成り立たないところに比較を、価値中立な世界に競争的な見方を持ち込んでしまったのが現代社会。
逆に言えば、そういう視点こそ、新しい社会をどう作っていく重要な視点にもなります。
間違ったことを素直に反省し、全体としていい方向へ持っていくことさえできれば、小さなアンバランスは大きいバランスの中できっといい方向へ向かうはずだと思うのです。
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長田弘(おさだひろし、1939‐2015年)さんの「人はかつて樹だった」(みすず書房、2006年)という21篇を収める素晴らしい詩集があります。
本書でも一部が紹介されています。
詩の言葉は、絵画などのイメージ世界に近いです。
イメージ言語は多義的なものを同時に象徴としてメタファーとして表現できますので、一見すると矛盾するもの、一見すると二項対立として捉えられやすいものも、大きな器の中で同居して表現できるのです。これこそがアートの力でしょう。
「人はかつて樹だった」にある『世界の最初の一日』、『樹の伝記』という詩の一節をご紹介します。
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『世界の最初の一日』 (「人はかつて樹だった」より)
水があった。
大いなる水の上に、
空のひろがりがあった
空の下、水の上で、
日の光がわらっていた。
子供たちのような
わらい声が、漣のように、
きらめきながら、
水の上を渡っていく。
遠ざかってゆくわらい声を、
風が追いかけ ていった。
樹があった。
樹の下には蔭が、
蔭のなかには静けさがあった。
(世界がつくられた)
最初の一日の光景は、
きっとこんなふうだったのだ。
人ひとりいない風景は、
息をのむようにうつくしい。
どうして、わたしたちは
騒々しくしか生きられないか?
世界のうつくしさは、
たぶん悲哀でできている。
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『樹の伝記』 (「人はかつて樹だった」より)
この場所で生まれた。
この場所でそだった。
この場所でじぶんでまっすぐ立つことを覚えた。
空が言った。
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わたしは
いつもきみの頭のすぐ上にいる。
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最初に日光を集めることを覚えた。
次に雨を集めることも覚えた。
それから風に聴くことを学んだ。
夜は北斗七星に方角を学び、
闇の中を走る小動物たちの
微かな足音に耳をすました。
そして年月の数え方を学んだ。
ずっと遠くを見ることを学んだ。
大きくなって、大きくなるとは
大きな影をつくることだと知った。
雲が言った。
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わたしは
いつもきみの心を横切ってゆく。
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うつくしさがすべてではなかった。
むなしさを知り、いとおしむことを
覚え、老いてゆくことを学んだ。
老いるとは受け容れることである。
あたたかなものはあたたかいと言え。
空は青いと言え。
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長田弘さんの詩の世界の中にも、人類が植物原理を持つ同じ生命体としてのつなが りを思い出し、自然の深く長い時間のあり方にリズムを合わせていくことの重要性が、美しい詩の言葉でつづられています。
他にも、ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder)の詩や、金子みすゞさんの詩もも紹介されていました。
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「世界はただ見ているだけではない。耳を澄ましてもいる。
ジリス、ハシボソキツツキ、それにヤマアラシに対する、無礼で思いやりのない言葉だって聞き逃しはしない。
(昔ながらの教えによれば)人間以外の存在は、自分たちが殺され、食料として食べられるのを気にしてはいない。
だがその際、彼らは、喜びと感謝の言葉が人間の口から聞かれることを期待しており、自分たちが粗末に扱われることをひどく嫌う。」
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金子みすゞ『大漁』(1924年)
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何萬(まん)の
鰮のとむらい
するだろう。
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地球にはいろんな生命が生きています。
人類の営みを静かに見つめている様々な生命のか細い声を、詩人は鮮烈でシンプルな言葉ですくいとり、日常の中で忘れがちな死角に対して鮮やかな光をあててくれます。
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環境活動家、科学哲学博士のヴァンダナ・シヴァさんも紹介されていました。
ヴァンダナ・シヴァさんは、ガンディの地域主義(Localization)と、Globalizationを統合させるために、地球を一つの共同体として見る視点として、アースデモクラシーを提唱しています。これは、地球上の全生命の民主主義です。
つまり、人間だけの意見で物事を決めるのではなく、動物や植物や細菌の視点も取り入れながら、新しい社会を構想していきましょう、という提案です。
自分も「人体民主主義」を提案したいです。
人の体は60兆個の多細胞生物の共生の場ですが、こうした人の体に対応させて戻りながら、社会の役割分担や分業と協力を考えて行こうという提案です。
今は、右手と左手が、一つの人体の中で争い合い、傷つけあっているような状態です。
わたしたち誰もが持つ「体」を一つのメタファーにしながら、地球という一つの人体を捉えていくことは、「アースデモクラシー」の間をつなぐ補助線になるのではないかと思います。
からだ会議の声を聞きながら、体の社会のように人類の社会を構想していく必要があるのでしょう。
→〇からだ会議~からだの声、聴いていますか?~
オフィシャルぬかづけマン
脚本:稲葉俊郎(東大病院循環器内科)
映像制作:ぬかづけマン教育委員会
製作:しあわせリンク
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京都大学総長であるゴリラ研究者の山極寿一先生。
山極寿一先生の『「サル化」する人間社会』(知のトレッキング叢書(2014年)から、ゴリラの社会に関する興味深い例がたくさん紹介されていました。
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山極寿一『「サル化」する人間社会』
「ゴリラの喧嘩は、誰も負けず、誰も勝たない。
互いに対等なところで決着がつくのです。」
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ゴリラもヒトも、類人猿という分類では同じ仲間です。
類人猿は英語で「ape」。
ヒトに似た姿形を持つ霊長類を指す通称名です。
・小型類人猿(lesser ape):テナガザルとフクロテナガザルを含むテナガザル科
・大型類人猿(great ape):オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ(+ヒト)
に分類されますが、大型類人猿のうち、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ(とヒト)はアフリカ類人猿、オランウータンはアジア類人猿と呼ばれます。
わたしたちヒトも含めて、これらの生き物も環境に応じて多様に枝分かれしていったバリエーションの一つです。
約2000万年前、ヒト上科がテナガザル科とヒト科へ分岐。
約1300万年前、ヒト科がオランウータン亜科とヒト亜科へ分岐。
約650万年前、ゴリラ亜科とヒト亜科の分岐
約490万年前、チンパンジーと人類(ヒト族)の分岐
約230万年前、チンパンジーとボノボの分岐。
という形で枝分かれしました。
仲間と言えば仲間ですし、違う種だと言えば違う種です。
もちろん、細菌や植物や魚類と比べると、それぞれはかなり似通っているとわかるでしょう。
まずテナガザルが分かれ、次にオランウータン。その後ゴリラが枝分かれ。
ヒトと二種のチンパンジーの共通祖先が分岐して、最後にチンパンジーとピグミーチンパンジーが枝分かれしています。
ですから、現存する動物でヒトにもっとも近縁なのは、二種のチンパンジーで、その次に近いのがゴリラです。
同じ類人猿の中で、サルよりはヒトに近いゴリラ。
そんなゴリラには、互いに相手を受け入れる能力に優れているようです。
ゴリラには優劣の意識がないらしいのです。
それに対して、ゴリラ(約650万年前)より過去に枝分かれしたニホンザル(約2000万年前)には、はっきりとしたヒエラルキーがあります。
ゴリラにも喧嘩はあるのですが、第三者はどちらにも味方せず、仲裁は平和的に行われます。
具体的には、
「メスや子供がケンカしている大きいオスの間に入り、背中や腰に軽く手で触れ、顔を寄せて覗き込む。オスたちは冷静さを取り戻して一件落着」
となるのです!
それに対して、ニホンザルの場合は、優位のサルに大勢が味方して、ケンカを終わらせる。そうした階級と多数決で決定されます。
ゴリラとサルの違いは、知性ではなく社会性の違いとされます。
ゴリラ社会が「負けない(勝たない)論理」でできてますが、サル社会が「勝ち負けの論理」でできています。
食事のときも、ゴリラは食べ物を前にして、共存と許容を、仲間内で示しあうのだそうです。
サルが食べ物を分配したり共有したり、食べる場所を譲ったり ということに無関心なのに対し、ゴリラはそこに意味を見出しています。
山極さんの洞察によると、「負けない(勝たない)」社会をつくるための装置が「家族」だったのではないかと。
家族を持つことで、社会の中に勝ち負けや支配・被支配とは違う対等な関係をつくり、定着させることができた。
そこにこそ、分配や遊びという文化が生まれます。
分かち合いという喜びを重視したのです。
そうした意味で、人間は、家族と共同体とを両立させた唯一の生き物だとされます。
ゴリラは家族を作り、共同体の最少単位としましたが、ヒトはさらに様々な共同体を産みます。
それは故郷や地域であり、都道府県であり、国家や民族というものもそうです。
ただ、家族から発展したそうした共同体は、ニホンザルのように勝ち負けだけで動く論理ではなく、そこから発展した「負けない(勝たない)」」論理が基礎にあるはずです。
ヒトは、個人から群れへ、そして家族へ、その後コミュニティーへと、独自に勝ち負けのない社会を発展させてきた生き物。
そういうことをゴリラの社会から学び直す必要があるでしょう。
山極さんは、こう指摘します。
「家族を失い個人になってしまったとたん、人間は上下関係をルールとするシステムの中に組み込ま れやすくなってしまうのです。」
最少共同体としての「家族」。
そこを発展させてできた「地域」や「国」というコミュニティー。
基盤としての「家族」が揺らぐと、その上にある「地域」や「国家」も揺らぎます。
改めて、最少共同体としての「家族」というものを新しく読み解き直す必要があると思います。
山極さんと対談している坂口恭平くんも、「家族の哲学」毎日新聞出版 (2015年)という形でそのテーマを先駆的に取り扱っていると感じています。
本書の紹介の中で、最後に、白川静さんの「強」「弱」の漢字の話をご紹介します。
「弱」
という漢字は、弓に装飾がほどこされているさま。
同じ部首を並べて強調していますが、見た目には美しい儀礼用の弓は、強さにおいては軍事用の弓には劣ります。
それに対して
「強」
という漢字は、「ム」は弓の握りの部分に紐を巻きつけて強固にし、「虫」は強い糸である天蚕糸(てぐす)。
天蚕糸を、弦に使った強靭な弓のことから、「強」という漢字が生まれました。
「弱」「強」という漢字の語源は、弓の役割の違いと言ってもいいかもしれません。
美しく儀礼用の弓と、攻撃・闘争用の強靭な弓。
それはいいとか悪いではなく、役割の違いであり、分業にすぎません。
本書は、
長田弘さん、ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder)、金子みすゞさん、宮沢賢治さんの詩が紹介され、ダーウィンを初めとして、ナマケモノやゴリラの話を含めて、様々な生き物の生態を紹介しながら、改めて「弱さ」の本質に迫った素晴らしい本でした。
繰り返しますが、
強いものが生き残る、
のではなく、
生き残るものが強い、
のです。
この乱世をなんとか生きている人は、みんな強い。
ただ生きているだけで、強い。
生きているだけで、十分です。
「弱さ」を知っている人こそ、「強い」のだと思います。
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