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若松英輔「100分de災害を考える」NHK出版 (2021/2/22)




NHKの番組100分de名著から。

寺田寅彦『天災と日本人』、柳田国男『先祖の話』、セネカ『生の短さについて』、池田晶子『14歳からの哲学』の4冊を選び、自然・死者・時間・自分との「つながり」を考えた本。

どの本も自分は大好きな本だし、若松英輔さんも最も好きな書き手の方。

学生の頃は、わけもわからず本を読んだ。

今は仕事の合間になかなか本を読む時間がとれないけど、こうした古典は、その一説に触れるだけで、ふっと作者の魂と同期するような気がしてくる。

文体の中に気品があったり、美意識があって美しさを感じたり、する。

寺田寅彦の文体は、理系の自分にとっては最も真似したい美しく完璧な文体で、憧れる。

柳田国男は日本語や土地名、風習のほんのささいな言葉を入り口に、古代の魂まで深めていく文体の強さがある。

セネカは、陰謀が渦巻く中で、理性を保つ手段としても文章を刻んでいた人だと思う。

池田晶子は、内部にある炎のようなエネルギーを、自分自身を焼き尽くさないよう文章で研ぎ澄ませながら、自身の内奥へと迫り続けた人だと思う。




 




科学の目は「事実」を認識するのは得意だが、「現実」を認識するのは不得意である。 そのことを超一級の物理学者である寺田寅彦はよくわかっていた。




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寺田寅彦『天災と国防』 「その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである。」

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寺田寅彦『天災と国防』 「二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。 各種の動力を運ぶ電線やパイプが縦横に交叉し、色々な交通網が隙間もなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。 その神経や血管の一箇所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。」

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ライフラインの問題を、人間の身体に比して考えているところに共感する。


今は、いかなる災害も「個」の経験ではありえない。 コロナ禍もそうだが、災害は「私」に来るのではなく、つねに「私たち」にやってくるもの。


今、問われているのは、「私」だけでなく、「私たち」という視座をどこまで深めることができるのか、ということ。 狭く不自由で窮屈な「私たち」ではなく、広がりがあり、自由で開かれた「私たち」へ。


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寺田寅彦『日本人の自然観』 「大自然は慈母であると同時に厳父である。 厳父の厳訓に服することは慈母の慈愛に甘えるのと同等に吾々の生活の安寧を保証するために必要なことである。」

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本居宣長によれば、「あわれ」の語源は、感嘆の「ああ(嗚呼)」と「われ(我)」の複合にあるとしている。 つまり、対象を自分のこととして考えること。 風景に「ああ、これは私だ」と、自然に自分を重ねて感慨を深くする。

桜が咲いたり散ったりする風景を見て、自分のこととして考えることが「あわれ」という感情。

この「あわれ」の感情は、自と他とを区別していく心の動きの方向性ではなくて、自と他がつながり融合していく心の働きのことを謳っているのだと思う。


寺田寅彦は科学者でもあり、同時に文学や哲学や俳句を深めた人でもある。

彼は自然と分断する自然科学ではなく、自然と一体化する神聖な行為のようなものとして学問を捉えていた人だろうなぁ、と思う。




 

柳田国男『先祖の話』

未曾有の非常事態において「常民の常識となづくべきものが、隠れて大きな働きをしている」

と述べる。





死者たちは遺された人や子々孫々のために色々と計画を立てて、その事業を何代にもわたって支え続けてくれる。 死者にも死者としての仕事がある。 そうしたことが「ご先祖になる」という言葉に残っている。



柳田が当時心配していたのは、「家」制度が近代に崩壊してわたしたちが「個」へと分解していったとき、「家」という、還る場所がなくなった死者たちのこと。

だからこそ、これまでの「家」とは異なる「家」の在り方、そして、亡き者たちとのこれまでとは異なる「つながり」を見出していかなくてはならないと述べる。そして、これをあくまでも「常民」の次元で実現しなくてはならない、と。


先祖が親しく感じられている頃、亡き者たちを「じいさんばあさん」と親しみを込めて呼んでいた。それは、「じいさんばあさん」(祖先や死者)と日常的に内なる対話を行っていた、ということでもある。


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柳田国男『先祖の話』

「「墓所(むしょ)」がまた一つの屋外の祭場であって、これと氏神の社とは神仏の差では決してなく、もとは荒忌(あらいみ)のみたまを別に祀ろうとする、先祖の神に対する心遣いから、考え出された隔離ではなかったかということを述べてみたい。」

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墓は不在を嘆き悲しむ場ではなく、死者と生者がともに「斎(いわ)う」場であり、墓所は屋外の祭場と記す。

そして、死者の魂は、「静かで清らかで、この世の常のざわめきから遠ざかり、かつ具体的にあのあたりと、大よそ望み見られるような場所でなければならぬ」とも。


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柳田国男『先祖の話』

「死んでも死んでも同じ国土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを顧念しているものと考え出したことはいつの世の文化の所産であるかは知らず、限りなくなつかしいことである」

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セネカ『生の短さについて』

「先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来るごとに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。」

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「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。」

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「人生は3つの時間に分けることができる。過去、現在、未来だ。多忙なひとびとは振り返るべき過去をもたず、ただ現在だけを生きている。仮に振り返ったとしても、後悔の念だけが押し寄せてくるので、進んで振り返ろうとはしない。 しかし過去は、運命の時から逃れ、私たちの手中にある。望めば眺めることもできるし、逆に引き離すこともできる。しかし多忙なひとびとはこうした特別な財産をもたない。 多忙なひとは、現在を「点」で生きているので、長さを感じることができない。それに対して、振り返るべき過去があれば、人生に厚みが生まれる。」

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「時間」クロノスと、「時」カイロスの関係性は、「財産」と「富」の関係性に似ている。 「財産」は有形だが、「富」は目に見えない価値を含むもの。

目に見えない「時」(カイロス)こそが、目に見えない「富」でもある。



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セネカ『生の短さについて』

「誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。実際、どうであろう、港から出た途端に嵐に遭い、あちこち翻弄された挙句、吹きすさぶ風が四方八方から代わる代わる吹きつけて、円を描くように同じところをぐるぐる弄ばれ続けた者が長い航海をしたなどと考えられようか。むろん、彼は長いあいだ航海したのではなく、長いあいだ翻弄されたにすぎないのである。」

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「人間の中で唯一、賢者のみが(人間を縛りつける)諸々の法則から解き放たれた存在なのである。あらゆる世紀が彼を神のごとく崇め祀るであろう。 幾許かの時が過ぎたとしよう。賢者は回想によってその過去を把握する。時が今としよう。賢者はその今を活用する。時が未だ来らずとしよう。賢者はその未来を予期する。賢者はあらゆる時を一つに融合することによって、みずからの生を悠久のものとするのである。」

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ギリシア語のスコレー(閑暇)は、英語のスクールの語源。 つまり、閑暇(ゆとりある時間)なくして哲学は生まれない。 哲学とは叡智を愛することであり、自分自身と対話すること。



セネカの言葉はすべて辛辣なようで、はっと冷静に帰らせてくれる。すべて本質を突いていて、言葉の精度や解像度がすごい人だ。


 


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池田晶子『14歳からの哲学』

「生きていることが素晴らしかったりつまらなかったりするのは、自分がそれを素晴らしいと思ったり、つまらないと思ったりしているからなんだ。だって、自分がそう思うのでなければ、いったい他の誰が、自分の代わりにそう思うことができるのだろうか。」

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「もし本当にそれがわからないことなのだったら、君は、悩むのではなくて、考えるべきなんじゃないだろうか。あれこれ思い悩むのではなくて、しっかりと考えるべきなんじゃないのだろうか。」

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「真理は、君がそれについて考えている謎としての真理は、いいかい、他でもない、君自身なんだ。君が、真理なんだ。はっきりと思い出すために、しっかりと感じ、そして、考えるんだ。」

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人は自分がそこに存在する限り、真理から見放されることはない。

「自己」の深化と、「他者」のつながり。この二つが同時に始まるのが哲学の最初の一歩。

本当の意味で、「考える」ことを深めていった先には「自由」がある。 「考える」行為は、「自由」を掘り当てる営為でもある。

自由とは「自ら」に「由(よ)る」ことであり、自分と深くつながること。



哲学は、人間の救済と関わることでもある。

だからこそ、哲学しながら人生を生きたい。

考える行為と共に医療行為に携わりたい、と改めて思う。

それこそが、人間の救済に関わることでもあるから。


本棚から引っ張り出して、古典を読みなおそう。

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