白糸の滝、音と小鳥
軽井沢の名所とされる「白糸の滝」。
引っ越し1年目にして初めて行った。
人出が多くなる前に、どんな場所なのか見とかないとなぁ、と。
あと、高知大学の医学生さんが、自分の赤い本(「いのちを呼びさますもの」)を読んで、遠路はるばる軽井沢まで会いに来てくれた!(何時間かかるんだろう?!)ので、「遠方より来たる朋(とも)」のために、The軽井沢をお見せしたい、というのもあり。
ありがとう!軽井沢は楽しめたかなぁ?!
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『論語』
有朋自遠方來。不亦樂乎。
朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。
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白糸の滝に行ってはじめて分かったのは、岩から水が染み出ていることが珍しい、ってことなんですね。それが滝のようになる、と(おそらく、滝に見えるような形には、人工的に手がはいっているでしょうが・・・)。
たしかに、近場で岩から水がしみ出しているのを見るのは面白い。
滝もそうだし水の流れもそうですけど、もともとは一滴一滴の水滴で、その塊が川や滝のように水の流れとして認識される。
でも、そこで出てくる水の一滴が、硬い岩盤を通過して、汗のように染み出て来る。
汗のようだ、と思ってボンヤリ見ていると、苔は人間の毛のように見えてくる。
腋毛とか胸毛とか陰部とか、人間の身体には汗が出やすいところに毛が生えていて、何かを守るためか、何かの名残なのか、そうした毛の分布も面白いところがあるんですけど、岩場からにじみ出てくる水滴を、恵みの水として、植物が溜まり場をつくり共同の住まいをつくる。ここにいれば水から食いっぱぐれることもないよね、と言わんばかりに。
そんなことを妄想していると、時はあっという間に流れ過ぎる。
滝がつくる、ザ――――っとという音。
水そのものには音がないのに、水と水がぶつかりあいエネルギーを高め合い、その水の集合体と岩ととぶつかり合い、その衝撃波のようにして音が出る。
ザ――――っという音の中に音浴しているだけで、脳の中に別のチャンネル(回路?)がモコモコと出てくるのを感じる。聴覚を遮断されることで、押さえつけられていた別の何か(感覚?)が表舞台に出てこようとしている胎動のようなものなのか。不思議なものだ。自分の行為が自分自身に及ぶものを能動態でも受動態でもなく「中動態」と呼ぶが、滝を見て滝に佇む行為は中動態なのかもしれない。
滝っていうのは、そうして自分の内部を観察するのに適切な環境だなぁ。もちろん、誰かと行っているときに、あまりに内向し続けていると、外界側からは心配されるかもしれませんが。
・・・・・・・
と、内向していると、突然鳥が飛んできて、眼があった。
小鳥は、苔で覆われた母性的な空間の中に巣を持っているらしい。巣作りのための材料を植物から調達していた。
人間もそうですが、生き物は、どんな環境でも快適な住まいをつくり、居場所をつくる。
そして、懸命に生きているものです。
小鳥も植物も人間も、同じです。
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