止まる技術

日本のオリンピック関連に関して思うこと。

2011年のとき、原発のことを調べて思っていたことと10年が経過して、同じことを感じる。

一番の問題は「止まる(止める)ことができない」ということに尽きるのだろうなぁ、と。


動くこと、動かすことに人は情熱を傾けるけど、「止まること」「止めること」になると、同じくらいの情熱を傾ける人が少ない気がする。個人の制御を越えて、「システム化」されたときの弊害でもある。


車はアクセルだけではなく、ブレーキの踏み方こそが大事だし、登山も、登頂だけではなく、下山しビバークする決断こそが大事だ。


ただ、これは人そのものが持つ特徴や盲点なのかもしれない。

健康法や養生法も、やり過ぎる人が多く、だからこそ、自分はいつも、止まる練習、ブレーキのかけ方をこそ大事に、と伝える。

頭は、エンジンがかかりだすと、前に前に、と前のめりになる傾向にあり、どうもブレーキをかけたがらないようだ。動き続けないといけない、という潜在的な恐怖がある。


ただ、「動き」や「運動」を考えるときにも、どういう風にブレーキをかけるか、休むか、そうしたことの方が、より本質的だったりする。緊張に対する緩和、とでも言うべきか。


そうしたことは「体の勢い」のようなものとも関係しているのかもしれない。体に「勢い」がついてしまうと、その「勢い」を制するのが難しくなる。もちろん、「体の勢い」はいい方にも悪い方にも使い方次第で、合気道はそのことを逆利用したものだとも思う。



システムは一度動き出すと止まらない。原発のことを調べていて、一番学んだことだ。


だからこそ、今後は、止まり方・止め方こそが、創造的な仕事となる気がする。それは養生法や健康法でも同じ。

「何かをする」ことは意外に簡単で、「しない(ことをする)」方が意外に難しい。


例えば、何かをする以上に、待つこと、何もしないで見守ること、を意識的にする方がエネルギーを使う。多くの人が「秘密」を守れないのも同じような事情だと思う。

待つことや見守ることの大事さは教育にも医療にも通じることで、放置とは違う。


関係性を切ってしまう(放置)のではなく、関係性を保ちながら何もしないと決断することが難しいのだ。


つまり、「する」と「しない」の両方向の力を同時に拮抗させることが、大事だ。

両方向の力を常に同時に拮抗させることを忘れなければ、「しない」方にシフトすることはそんなに難しいことではない。


個人の生命システムの全体性を考えたとき、起きているときと同じ程度に、「眠り」の時間が大切で、「眠り」こそが、過剰分にブレーキをかけるようにして全体性の調整をしている。


2021年の時代、人間の文明自体に、そうした課題が本格的に投げかけられている気がする。問いがあらゆる形に姿を変えながら。

「個人の眠り」に相当する、「文明の眠り」とはどういうことだろうか、と。




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夕焼けのときの、何とも言えない複雑な天界の色。

この世の終わりのようでこの世の始まりのような色そのもののエネルギー。

こうした空を見て、ふと頭に浮かんできたこと。